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前夜からの続き

第196夜から第200夜まで

第196夜 - 経済学は超ムズカシイ?

経済学にはよく”合理的に行動する人間”とか、”他の条件が等しければ”といったようなある仮定の下にモデルが組み立てられています。これはさまざまな外的条件(与件)が複雑に絡み合って一義的な解が求められず、抽象化を余儀なくされるからであります。このことについてケインズは面白いエピソードを残しております。”量子論の有名なあるベルリン大学のプランク教授はかつてわたくしに語って、若い頃経済学を研究しようとおもったが、それはむずかしすぎた!といったことがある”と。そしてケインズはこう補足しています。プランク教授なら数理経済学の全構成をわずか数日で容易にマスターすることができたであろうが、彼はそういう意味でいったのではなかったとして、”最高の形での経済解釈にとって必要な、論理と直観との融合、その大部分が正確とはいえない事実についての広い知識などは、主としてその才能や想像力や、高度の正確さで知られている比較的単純な事実の意味内容および先行条件を究極まで追求する能力にあるような人々にとって、圧倒的に困難なものである” と。いやはや経済学って何と難しいものなのですね。

第197夜 - 新古典派の弱点

今日主流派経済学と言われているのは、どうやら新古典派経済学(neo-classical school)のことを指しているようです。’どうやら’と言ったのは、誰がどういう資格でいかなる理由で「主流」と決め込んだのか、「ハテナ」には判らないからです。自分の学派を自ら主流派と名づけたい気持は判らぬでもないが、他の学派から見れば何とも奇妙に受け取られるからです。その新古典派経済学には次の二つの弱点が指摘されるでしょう。

1. 経済変化の理論を欠いている
資源や技術、嗜好などの要因は、経済学的な与件ではないとして経済学の対象にしておりません。でも今日のような目まぐるしい技術変化は、一回限りでなく連続的に生じており、したがって経済と無関係などといってはおられません。技術シフトが連続的に起こると経済の均衡がそのたびにズレていきます。つまり不均衡な状態が続くわけであります。新古典派経済学では内生的に均衡の世界を扱っており、不均衡な側面をあまりに無視し過ぎているのです。

2. 「国家」の理論を持たない
新古典派経済学は、アダム・スミス以来の伝統に沿って国家はミニマムの「公共財」を供給し、私的な財の市場には介入しない中立的存在とされています。しかし本来何が公共財で何が私的な財であるかを前以て区別できるわけではありません。国家がなぜ必要か、国家の機能とは何かが問われざるを得なくなります。新古典派経済学は国家の問題を軽視し、経済的自由主義を謳歌しています。とすると今日の国際関係に対するアプローチ、例えば保護主義や開発主義を論ずるにはあまりに弱点が多すぎると言わざるを得ません。

(参考:村上泰亮『反古典派の政治経済学』上)

第198夜 - 羊が人間を追い出す?

経済史の世界で、貧困の原因が論じられるなかでよく見られる現象は、「囲い込み enclosure」という言葉です。つまり牧羊のために人間が追い出されるという説であります(15世紀以降主としてイギリスで見られました)。ところが最近になって異説が唱えられました。羊が人間を追い出すという意味でのエンクロージャは16世紀以降はそんなに激しくは現れなかったという説です。それに代わって「穀草式農業 convertible husbandry」のためのエンクロージャが盛んとなった、という説です。この農業生産方式が農業労働人口を追い出したというのです。穀草式農業とは、穀物生産(小麦・大麦など)と牧草生産(牧羊・酪農など)を休閑なしに変わりばんこに行って利潤極大をめざす営利農業のことです。その経営者は「資本家」として、他方多くの農民は小作人として分かれていきました。さらに新しい産業が興るとそれに労働者が投入され、彼らは無数の賃労働者となっていきます。そうして牧羊地帯からより豊かな穀草式農業へ移動していきます。その周辺の産業にも労働機会が訪れてまいります。離農という現象が発生します。村上氏は、前者の羊が人間を追い出す現象をプッシュ説、新しい産業が農民を引き寄せる現象をプル説とに分けて興味深い考察をされています。

(参考: 村上泰亮『反古典の政治経済学』上)

第199夜 - 労働と勤労

労働という語感は、何かつらい、低い次元での肉体労働のようなイメージ、それに対して勤労はもっと広い意味で例えばサラリーマンの勤務のようなイメージが浮かびます。では労働と勤労はどうしてこのような違いを生んだのでしょうか。それは遠くアダム・スミスに発しているようです。スミスは「労働」を肉体労働に限定はしていませんでした。たとえば哲学者や聖職者や医師や法律家、弁護士についても労働という言葉を使っています。ところが資本家の労働までも含めると賃金を貰って働く階層(=賃労働者)との間に概念上の混乱が起こり、このため、のちにスミスは「勤労industry」と呼びかえるようになりました。やがて社会が発展して「勤労」は工業となっていきます。industyが勤労と工業の両方の意味を持っているのはこのような歴史があるのです。こうして生命と血が流れる人間の生きた「労働」にもかかわらず、「industry 勤労→工業」と分離されるようになったのです。

第200夜 - toil and trouble

アダム・スミスは労働を「労苦と骨折り」(toil and trouble)として捉えています。このイメージには何か労働が厭なこと、苦痛を伴うことのように受け取られます。これでは「労働」によって人間が生産する共同の富、とか人類全体の富の「源」という視点が損なわれてしまいます。これでは労働は「不愉快」、「肉体的不便」、「心的苦痛」などと結びつけられてしまいます。限界効用学派や新古典派経済学などは、こうして労働をマイナスの効用として、あるいは不効用として前提されています。さて労働はこのように心ならずの「労苦」としてのみ受け取ってしまっていいのでしょうか。これに対する一つの解決は、ハンナ・アーレントが言うように、人間の活動を、「労働」と「仕事」と「活動」に分けて考えようと唱えます。このような文節化をすることは言葉の明瞭化にはなりますが、却って「労働」をなにかさげずんだ領域に閉じこめるようになるでしょう。そうではなく、労働そのものに目的を持たせ、努力を伴わせ、人格的な関係をもたせることで、「労働」を「活動」そのものに転換させることこそ大切なことなのではないでしょうか。スミスが「労働」を「勤労」に置き換えようとした意味を「ハテナ」はこう受け止めています。だからスミスの労働観を単にtoil and troubleというフレーズに閉じこめてしまっては、ある社会思想家のいうようになってしまうのです。

目的の見えない労働は苦役である。コミュニケーションを奪われた労働は苦役である。自分の生存だけのための労働は苦役である。

(参考:野地洋行「経済学と人間の労働」 野地洋行編著『近代思想のアンビバレンス』より)

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