普通技術という言葉は、「応用科学」という意味で使われています。ところが経済学者の用いる技術は、これとは少し違った意味を持ちます。技術の変化という場合は、経済学的には生産に投入されたものとそこから出てくる産出の関係の変化を意味するのです。
このことから次のような変なパラドックスが生じます。たとえば、メーカーが現場の作業員に「権限を委譲」した結果、品質が向上し、管理職の数を減らせるようになったとしますと、経済学ではこれを、技術が向上したと考えるのです。そうしますと、技術革新は管理者の雇用を不要にします。アレッ!技術が管理者をクビにする? 逆に管理者を増やして監督を強化して生産量が増えると技術は向上し、管理者の雇用は安泰です。一体どちらがいいの?
わたしたちの手じかにある例では、真っ先に持ち出されるのはコンピュータでありましょう。コンピュータのオペレーターが1人いれば、タイピストが6人要らなくなるという例はよく挙げられます。しかし他方でコンピュータが普及したからといって、弁護士や医者、企業幹部の需要は増えません。ということは技術というものは、直接働く人にとって代わるというのではなく、技術が一部の人の力を増幅させるのだ、ということなのです。
そうすると技術というものは、少数の幸運な人に有利に働き、その他大勢には不利に働く、技術がいわゆる「勝ち抜き戦」の様相を強めるものなのでしょうか。H.G.ウェルズは『タイム・マシン』(1895年)のなかで、労働者が人間以下の地位に落ちる未来世界を描きましたが、外れてしまいました。労働者の賃金は結構上昇し、今日では国民所得に占める資本所得の割合が低下し、労働所得の割合がむしろ上昇しているのです。
技術の知的能力と才能を持つ人のことを「シンボリック・アナリスト」(ロバート・ライシュ)と呼ばれていますが、しかしごく普通の人でも、スーパー・コンピュータもはるかに及ばないほど、あいまいな情報処理をこなしておりますよね。”1956年のプログラムでは、計算問題が解けた。61年のプログラムでは、大学レベルの数式が解けた。70年代になってようやく、ロボットのプログラムがつくれるようになった”が、”子供が積み木を積み重ねる程度の認識能力と制御能力しかもたなかった”と(人口知能の提唱者M.ミンスキー)。
結局、人間になくてはならぬ仕事というものは無くならないといえそうです。例えば、完全自動化工場の掃除はいったい誰がするの?庭の手入れは?等々、不自然なことは機械にやらせ、自然なことは人間に残される、というのが将来の理想の姿でありましょう。それにはわたしたちの技術や労働の価値観が変わらなければなりませんね。
(参考:ポール・クルーグマン『良い経済学悪い経済学』)
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