前夜からの続き
第16夜から第20夜まで
第16夜−”もはや戦後ではない”
よく耳にするこの名言は、どうも誤って伝え継がれているようにハテナ博士には思えるのです。昭和30年頃から敗戦による日本の復興が終わり、これから日本が成長していくという意味で「もはや戦後ではない」との名文句が受け流行語とさえなった、というのが通説でありましょう。

この言葉は、昭和31年7月の経済白書で述べられたものです(因みにその時の白書の副題は「日本経済の成長と近代化」、執筆責任者は後藤誉之助氏です)。そのさわりは次の通りです。

「いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかも知れないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや<戦後>ではない。われわれは、いまや異なった事態に直面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」。

この白書の意図とは逆に、その後の日本経済は高度成長に突入しましたので、世間ではこの言葉があたかも戦後の苦しい時期は終わり新たな成長への高らかな宣言と受け取られてしまいました。白書は、戦後の復興は成長度を測る分母が小さかったので成長率も高く速かったが、これからはそのようなスピードで成長する時期は終わったことを言いたかったのでした。つまり白書は低成長に入ると言ったのですが、実際は高度成長を迎えたということで白書は予測を間違えたのですが、「もはや戦後ではない」のキャッチフレーズは独り立ちしてあたかも白書が高度成長の到来を予言したかのように受け取られてしまった、ということでした。ここにこの時の経済白書の悲劇があったのです。

もう一つこの白書には、「近代化」という言葉が使われていますね。「・・・今後の成長は近代化によって支えられる」の近代化とは、技術革新のことです。シュンペーターのいうイノベーションの訳語として使われました。「技術の進歩とは、原子力の平和利用とオートメーションによって代表される技術革新(イノベーション)である」と。

このような点で、昭和31年の経済白書は大変興味深い話題を提供したと言えましょう。

(参考: 昭和31年『経済白書』−日本経済の成長と近代化−)

第17夜−生産性が上がると雇用は減少する?
アメリカの経済のお話です。

台湾のメーカーが、アメリカ製のマイクロプロセッサーにシンガポール製のディスク・ドライブを接続し、中国製のプラスチック・ケースに納めて、アメリカに輸出できるような時代になっているのにもかかわらず、貿易の比率がそれほど上昇しないのは、なぜでしょうか?

 それは、工業製品の行き来はかつてなく激しくなっていますが、その一方で、こうした貿易財がアメリカ経済に占める比重が低下しているからなのです。

皮肉にも、時が経つにつれ増えていく仕事は、アメリカ経済が得意な分野の仕事ではなく、不得意な分野の仕事になっています。例えば、アメリカ農業の生産性は極めて高いのですが、労働人口に占める農業部門の就業者の比率はわずか2%にすぎません。一方、レストランで給仕したりレジを打つ人の雇用は変わらずむしろアメリカの雇用増加の多くを外食産業や小売業が占めています。そうしますと、生産性の伸びが大きい産業では、雇用が増加するのではなく減少する傾向にある、というパロディが成り立つ?ということになるのでしょうか。

概して、モノをつくる仕事の分野では生産性が上昇していますが、サービス業の生産性はあまり上昇しませんね。例えば必要な情報をパターン化し、コンピュータやロボットのプログラムを組むことが比較的容易な分野では、生産性が大幅に上昇しますが、逆に、散髪や医療など情報処理の手順がわかりにくく、きわめて複雑な仕事、つまり常識が重要な要素になっている仕事では、生産性の伸びは低いのです。

ということは、生産性の上昇は却って雇用の増加をもたらさない、それどころか減少すら招く?というパラドックスが生まれそう。そしてコンピュータやロボットに人間の代わりをさせることができない仕事や、人間の感性を必要とするような分野で雇用が増加し、少なくとも維持される、という現象が起きるかもしれない、というハテナ博士の逆説は正しいのでしょうか何かか間違っているのでしょうか?

(参考: ポール・クルーグマン『良い経済学悪い経済学』)

第18夜−新しい酒を古い壜に注ぐ
金融を学ぶ人にとっての古典書の一つに挙げられるのは、W.バジョットの『ロンバード街』です。この著は1873年に著され、当時のイギリス金融市場を鮮やかに描き出し、なかでもイングランド銀行の中央銀行としての役割りを強調しました。バジョットは、ジャーナリストですが、経済学者、政治学者、銀行家、文芸評論家として多方面で筆を振るった人です(1826-1877年)。

その古典的名著、『ロンバード街』のなかで、バジョットは、「新しい酒を古い壜に注ぐ」('Putting new wine into old bottles' is safe only when you watch the condition of the bottle, and adapt its structure most carefully)、と言っているのです。普通の諺は、「新しい酒は新しい皮袋へ」で新約聖書のマタイ福音書にその源を探ることができます。それは次のように記されています。

「だれも新しいつぎを古い着物に当てはしない。なぜなら、そのつぎは着物から(一部を)引き裂き、破れはもっとひどくなるから。また人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、皮袋ははり裂けて、ぶどう酒は流れ出、皮袋は駄目になる。むしろ人は新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れる。そうすれば両方とも安全に保たれる。」

それをバジョットは巧みに言い換えて、イングランド銀行の責務を説きます。イングランド銀行が、1694年に設立されて以来、さまざまな外的要因の変化に対応し、その都度経営のあり方が問われてきました。しかしバジョットは永く続いた伝統や慣習を大切にして、それを一挙に壊してしまうのではなく、漸進的な進化によって新しい風(=酒)を注意深く採り入れようと言うのです。そして賢明な配慮によってイングランド銀行は統治されなければならぬ、と説くわけです。古い壜を壊すことによって改革をするのではなく、新しい酒を注意深く注ぎながら維持しよう、細心の注意をもって、とバジョットは考えたのでありました。

(W.バジョット『ロンバード街』宇野弘蔵訳 岩波文庫)

第19夜−見えざる手
経済学の本に最も多く出てくる言葉は、おそらく「見えざる手」(an invisible hand)ではないでしょうか。この有名な句は、経済学の父と言われるアダム・スミスが用いたものです。しかし、スミスの分厚い書物のなかでたった二度しか出て来ません。一つは『国富論』のなかです。そのさわりは次のとおりです。

あらゆる個人は、必然的に、この社会の年々の生産物をできるだけ多くしようと骨おることになるのである。いうまでもなく、通例かれは、公共の利益を促進しようと意図してもいないし、自分がそれをどれだけ促進しつつあるのかを知ってもいない。(中略)しかもかれは、このばあいでも、その他の多くのばあいと同じように、見えない手(an invisible hand)に導かれ、自分が全然意図してもみなかった目的を促進するようになるのである。」(国富論第4編第2章)

もう一つは、『道徳情操論』(『道徳感情論』とも言われます)のなかです。ただここでの用いられ方は少し前置きを必要とするでしょう。スミスは自然(例えば土地)の恵みが人類の勤勉さと結びついて都市や国家を建設させ、人間生活を高尚にし、学問や芸術を発明したり改良したりするとして、人間は自分だけの利便をはかるつもりであるとしてもその成し遂げた成果を社会に分配するのだとして、次のように言うのです。

「かれらは見えざる手(invisible hand)に導かれて、もしも土地がその上に住むすべての人々の間に平等の面積をもって分割せられているとすれば、その場合におそらく行われるにちがいないと思われるのとほとんど同様の生活必需品の分配が行われるようになり、そしてこのようにして何ら企図せずまた何ら関知せずして、社会の利益を促進し、種族増殖のための手段を供給するようになるのである。」(道徳情操論第4部第1章)

同じ「見えざる手」ですが上と下とでは若干ニュアンスの違いがあります。上の方は経済学的に見ての予定調和論でありますが、下の方は敢えていえば「神」の見えざる手に導かれてと、神様が隠れているように響きます。

第20夜−不良債権のお話
企業小説界に華々しくデビューし今をときめく幸田真音の小説、『凛冽の宙』のなかの不良債権を描いたシーンです。長たらしくなりますので凡そかいつまんでみましょう(興趣が半減する恐れはありますが)。

「もしも完全破綻じゃなくて、破綻懸念先だったりする場合なら、引当率は70パーセントで済むけれど、さらに税金がかかるじゃないか。たとえば100億円の不良債権だったら、70パーセントの引当金である70億以外に、実行税率40パーセントとして、28億円の税金がかかる・・・」 「要するにな、銀行側としては、全部で98億円の金が必要になるというわけだ。・・・」「いまでも100億円が戻ってこないうえに、さらに98億円の資金が必要だ。そんな状態で長く置いておくよりも、たとえ5億円でも受け取ったほうがましだし、実際に5億円で債権を転売するわけだから、不良債権をバランス・シートからはずせることにもなるというわけさ」「そんな返却される見込みのないような不良債権なんかをですよ、5億円も出して買い込んで、その買い手はどうするんですか?」「(借り手は)もちろん100億円をまるごと全部は返す能力がない。だけどな、仮に、その10%の10億円だけ返したら、借金をすべて帳消しにしてやるから、返済しなさいと言われたら、おまえならどうする?」「10億円も取り立てることができれば、資本投下した元金の倍額ということになる」「債務者のほうとしても最初に借りた金の一割を返済するだけで、借金を全部チャラにしてくれるというなら、返すかもしれません」「5億円を払って、邦銀から債権を買って、債務者から10億円を取り立てることができたら、結局ネットで5億円の儲けになります。収益率200パーセントか。なるほどなあ、すごい効率のいいビジネスですね。」

こういう取り立てをする専門業者をサービサーというんですね。さて、この会話で一体誰が損して誰が儲けているのでしょう?

(幸田真音『凛冽の宙』より)

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