前夜からの続き

第41夜から第45夜まで

第41夜 - お金ってなにもの?

わたし達が普段何の疑いもなく買い物をしたり貯蓄したりするお金(貨幣)とは何者?この上なく便利な紙切れやコインには一体値打ちがあるの?なぜ紙切れや鋳貨がそれ自体では殆ど値打ちがないのに全国どこでも通用するの?遥か昔は兌換銀行券といって金(キンに換えることができるという保証がありました。が、今日は不換銀行券と言って紙幣を日本銀行に持っていっても金(キンに換えてはくれません。日本銀行の貸借対照表には銀行券の発行額は負債の項目に計上されているにも拘わらずその負債性はどこへも払うことはないのです(一般の企業では負債は必ずいつかは支払わなければならないのに)。考えてみればこの貨幣という魔物は昔から多くの謎めいた物語を作ってきました。これをフランケルという人は次のように余すところなく描き切っております。

貨幣にたいしてなされてきた定義や記述は無数である。貨幣は諸悪の根源だとするものから、貨幣は天からの恵みだとするものまである。あるものは大した問題ではないといい、またあるものは重要すぎるぐらい重要だという。貨幣は政治的現象としても、あるいは社会的現象としても描かれてきた。また、メカニズム、鏡、宗教、神話として。複雑さを縮減するコミュニケーションの手段、あるいは、複雑さを増加させる夾雑物として。守銭奴の呪詛、浪費家の霊薬として。不活性の中立的なもの、あるいは、「経済システムを刺激して活発にするドリンク」として。社会進歩の道具、あるいは、それの障害物として。*

はて何とややこしい説明でしょう。でもインフレやデフレに出会うとき、きっとこの貨幣という魔物に翻弄されることになるのです。次夜は再びお金とはについてかのシェイクスピアのセリフをご紹介しましよう。

(*S.H.フランケル『貨幣の哲学』−信頼と権力の葛藤ー)

第42夜 - シェイクスピアはお金をどう見てたの?

前夜に引き続いて今夜は社会経済学者の貨幣観でなく、あのシェイクスピアがお金についてどういうセリフを吐いているのか、を見てみましょう。シェイクスピアの戯曲『アテネのタイモン』のなかにこんな名句があります。そのさわりのところです。

なんだ、これは?                                         金貨か?黄金(こがね)色にきらきら輝く貴重な金貨だな?                  いや、神々よ、私は真剣に祈っているのだ、                          どうか草の根を!だが、これだけの金があれば、                        黒を白に、醜を美に、邪を正に、卑賤(ひせん)を高貴に、                  老いを若きに、臆病を勇気に変えることもできよう。                      神々よ、どういうことだ、これは?どうしてこれを?                       これはあなたがたのそばから神官や信者たちを引き離し、                   まだ大丈夫という病人の頭から杖を引きはがすしろものだ。                  この黄金色の奴隷めは、                                    信仰の問題においても人々を結合させたり離反させたりし、                 呪われたものを祝福し、白癩(びゃくらい)病みを崇拝させ、                  盗賊を立身させて、元老院議員なみの                            爵位や権威や栄誉を与えるやつなのだ。                           枯れしぼんだ古後家を再婚させるのもこいつだ、                       膿()みただれたできものだらけの患者さえ一目見て                     嘔吐(おうと)をもよおすような女でも、こいつをふりかければ                   たちまち四月の花と化けるのだ。やい、罰当たりな土くれ、                  人間を誘惑し、国家のあいだに無謀な紛争を起こさせる                   いかがわしい売女(ばいた)め、いまにきさまの本領を                      存分に発揮させてやるぞ。

いやはやさすがはシェイクスピアさん。言葉の機関銃みたいにお金について言うことしゃべること!ちなみにシェイクスペアの生年没年をハテナ博士はこう覚えています。生まれ年は”ヒトゴロシ”(1564年)、亡くなった年は”イロイロナ説ガアリマシテ”(1616年)。つい悪乗りして駄洒落を申して済みません。

(シェイクスピアの訳は小田島雄志によるものです)

第43夜 - 規制緩和のパラドックス

r「国家に対する反逆は成功しない。それはなぜか?」→「それが成功した場合には、誰もあえてそれを反逆と呼ばないからだ」。では、「規制緩和は決して失敗しない。どうしてか?」→「失敗した時には、それは本物ではなかったと言うからだ」。

デービッド・ゴーランという人も規制緩和は結局は再規制をもたらすに過ぎない、と言っていますね。

規制緩和といっても、それは規制を廃止することではなくて、(より自由なものではあるけれども)他の規制を含んだ別の規制に置き換えることであって、本当のところは「再規制」と呼ぶべきもの。(『1990年代の金融規制』より)

さて、皮肉屋のクルーグマン教授は次のようなパロディを投げかけています。でも今夜はもう眠いから翌夜にいたしましょう。

(クルーグマン『嘘つき大統領デタラメ経済』)

第44夜 -カリフォルニアの電力危機

規制緩和は自由市場の守り神のようなものでしょう。自由な市場は魔法のように豊富で安くクリーンな電力を提供すると言われてきました。ところがです。カリフォルニアは電力不足と、とてつもない高い電力料金を払わされることになったのでした。2000年頃のことです。一体何がそうさせたのでしょう。果たして電力に対する規制緩和は失敗だったのでしょうか。いやそうではなかった、というのが真実のようです。何故?そのやり方に問題があったからです。第一、一般的な教科書によれば、料金が上がれば消費を控えると教えてくれます。けれども電力のような公共財はなかなか節電のインセンティブが働きません。第二、もし自由市場に完全に任せれば、もはや電力を使用できないほどべらぼうに電力料金が上がってしまう、電力不足が起こらないほど需要をさげるには電気価格を大幅に上げなければなりません。ところが一般の奢侈品とは違って公共的な性格を持つ電力に対しては、結局政府の介入を仰ぐことになります。

ということは規制緩和が不完全であるということを示しています。結局規制緩和派、それによって儲ける電力会社等への非難。一方規制派、それによって政府や地方自治体の費用の増加(安い電力料金の維持のための費用増)。この相反する二つの矛盾をどう解決すればよいのでしょうか。

そこでハテナ博士は考えます。市場の神話を盲目的に信じてはいけませんよと。なぜなら市場というものはそんな神様のような存在ではないからです。ひょっとしたら規制緩和によって不正な儲けをする人もいるかもしれません。市場がきちんと機能している場合にのみ規制緩和=市場開放をすべきである、という教訓が生きているのではないでしょうか。

(クルーグマンの前掲書から考えること)

第45夜 - あのエンロンが!?

もともとエンロン社は天然ガスパイプライン会社で厳しい規制にしばられていました。どころが1980年代にガス市場が自由化されると、天然ガスの先駆者として大きな利益を手にします。その次は電力へ、そして水道、光ファイバー・ケーブル、データ記憶装置、広告にも進出していきます。さらには投資会社へも変貌していきます。では一体何がエンロンを転落させたのでしょうか?いろいろと派手な推測(例えば不正経理操作、監査の欠落など)の裏の真実は、どうやらハテナ博士には市場の見えざる手への過信にあったと映ります。そう、そもそも公共事業には一定の規制が課せられることは否めません。特にエンロン社のような独占と市場操作は許されないのです。このデシプリン(規律)を自覚し守ることが何よりも必要であった、とハテナ博士は思うんであります。

いささか悪乗りしてもう一つクルーグマンからの教訓を学びましょう。次の夜話へ・・・。

(再びクルーグマンの前掲書を参考にしました)

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