前夜からの続き

第51夜から第55夜まで

第51夜 - 詩人の感性

あれこれと理屈をこねて理論がどうだ、政策をこうすべきだ、という前に感性の鋭い詩人の眼には次のようにバブルの発生と崩壊を予言しているかのような珠玉の言葉が浮かぶようですね。ボードレールは、1859年に著した『悪の華』の「旅」にて詠いあげた以下の詩は、まさか本人がバブルのことを指したものではないでしょうが、何かズシン〜と「ハテナ博士」には衝撃を受けるのです。

精巧を極めた宮殿楼閣の魔法の国の華麗さは  
君たちの国の銀行家にとって破産の夢と思はれよう。
・・・・・・
それから次に、また何を見たのか。
                   

第52夜 - 主流派経済学とは

今日の経済理論は、新古典派経済学といわれているように市場を中心とした枠組みの理論が幅を利かせています。市場、価格、競争などの均衡を中心とした理論です。市場至上主義などと語呂合わせに近い言葉も流行っております。だが、ちょっと待てよ!一体誰が、何の権威あって「主流」と自ら名乗り出たのでしょうか?「ハテナ博士」は首を傾げます。だって「主流」に入らない人たちは、「非主流」とか「異端」とかで片付けられてしまう。それがイヤなのです。新古典派経済理論は市場原理正統派です。でも「市場の失敗」と言われるように、市場とは無規律なもの、これに頼るとえらいしっぺ返しをくらいます。のに、こんなことが言われます。Q:”景気はいつ回復するの?”A:”市場に聞いてくれ” Q:”どんな政策を取れば良いの?”A:”市場に聞いてくれ”・・・!?×△◇etc. これではバブルの発生もまたその崩壊も整合的な市場原理が貫徹しているのだ、ということになるでしょう。これではいけない、無規律、無秩序な市場を制御するシステムが要請されるようになりました。例えば、古くはケインズ、新しくは制度学派などの行き方です。さて軍配はどちらに上がる?

第53夜 - 経済学と倫理

r前夜でいささか新古典派経済学に触れそれを批判しました。だが、そもそも新古典派経済学の起源を辿れば、以前に挙げたことのあるアルフレッド・マーシャルに行き着きます。そのマーシャルは、経済倫理を強く抱いた人でありました。彼は次のように言っています。

〔経済学者の義務は〕「社会の輿論を導いて、これを無形の名誉裁判所たらしむべく努力しなければならぬ」

「ハテナ博士」は今日の主流派経済学者(新古典派経済学)に投げ返したく思っております。

(アルフレッド・マーシャル「経済騎士道の社会的可能性」より)

第54夜 - 銀行業者への警告

独特の言い回しと皮肉で知られるシュムペーターは銀行業者に向けてこんな警告を発していますが、今まさに含蓄ある教えとして学ぶべきでしょう(もう遅い?)。

銀行業者の機能は本質的に批判的・抑制的・警告的なものであり、・・・政府や政治家や一般大衆にまるで人気がない場合にだけ一人前なのである。(「ハテナ博士」のひとり言・・・銀行全盛期には大衆にこびるようにしていたっけ?)

〔銀行業の盛んなときは〕才能と訓練にどんなに不足している人でも銀行業務に流れこみ、顧客をみつけ、かれ自身考え通り顧客と取引することができるくらいに伝統も基準も欠けていることがある。このような国とか時代とかには、向こう見ずな銀行業がーこれに付随してまた向こう見ずな銀行理論がー発展する。・・・資本主義発展史を転じて、破滅史たらしめるに充分である。

(シュムペーター『景気循環論 I 』より)

第55夜 - 文化と経済

52〜53夜でお話しました、市場経済の有効性を認める議論の根底には、論理的な合理主義が一貫して流れているように思われます。けれども、その論理合理主義を貫こうとする経済学が、その理論を精緻化すればするほど、現実から遊離してしまうというパラドックスに陥ります。そこで経済学にも文化的な要素を織り込むべきという反省がうまれます。最近の偉い学者のお話し(まだ日本には紹介された覚えは「ハテナ」にはありません)。

経済学への倫理的、歴史的、文化的アプローチの要諦は、文化の要素が今日の経済学・・・においてますます重きをなしてきている。・・・文化が高度に発展すればするほど、精神的ー倫理的根源はますます重要になってくる。即ち、古い経済分析の不完全さは、これらの重要な根源をないがしろにしたことに関係がある。

(P.Koslowski, Ethics in Economics, Business, and Economic PolicyのIntroductionより)

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