前夜からの続き

第86夜から第90夜まで

第86夜 - 市場の失敗はどんなときに起こるか

では、市場の失敗はどんなときに現れるのでしょうか。先に挙げた植草氏により「ハテナ博士」流にアレンジしますと、次の9つの要因が考えられます。

@分配が不公正であるとき、A経済が不安定になったとき、B物の値段が今すぐに決まらないとき(例えば子孫のための環境保全や生態系保存など)、C公共財が市場に参入するとき、D外部経済が生ずるとき(たとえば鉄道の敷設により土地の値段が上がる、逆に公害による大気汚染や水質汚濁を地域住民が負担するのを外部不経済といいます)、E自然独占がある場合(例えば鉄道、電力など)、F不完全競争がある場合、G情報が偏在しているとき、Hリスクが大きい場合。

特に、金融市場の失敗は優れて今日的な問題でありますので、次夜でもう少しお話してみましょう。

第87夜 - 金融市場は相対取引に注目

金融取引は主として市場取引と 相対(あいたい) 取引に分けることができるでしょう。例えば市場取引の典型的な例は株式や債券市場です。ボンド型金融システムとも呼ばれます。これに対して 相対(あいたい) 取引は金融機関の貸出・預金によって行われる金融システムです。その中核となる金融機関貸出取引はローン型金融システムと言われます。

わが国の金融システムは、高度成長期には典型的なローン型金融システムでした。しかし1975年以降国債の大量発行によって、証券市場は格段の発展を見ました。つまりローン型からボンド型への移行が顕著にみられるようになったのです。

しかし「ハテナ博士」は敢えて相対取引の重要性は失われていないと主張します。何故でしょうか?それは、すべての取引を市場に任せると暴走するからだ、と考えています。土地のバブルなどがそうでしたね。相対取引は市場を介して行われるのではなく、いわば1対1の交渉です。そこにはお互いの信頼関係が存在しないと成立しません。この意味では市場は冷淡な非人格的なシステムといえましょう。相対取引は信頼関係を基礎とする人格的な取引です。お互い情報の非対称性を持っていたままで交渉は成立しません。そこにメインバンクとしての自覚とプルーデンス(深慮)が働き真の情報の提供、授受がみられます。もっとも理想化し過ぎているとの批判もありますが(例えば相対取引では企業と銀行間に癒着が起こる!)、「ハテナ博士」の持論はこの点にあります。

第88夜 -政府の失敗

「市場の失敗」と対になって考えさせられるのが、「政府の失敗」です。政府の失敗には二つの要因があります。

@政府の諸機関には私企業にくらべどうしてもコスト削減の動機が希薄となります。    A政府の活動に対する需要が増大していわば需要のインフレ化が起こります。これに対して民間の市場の利点は、一般には費用削減の努力を企業は常に行っています。”一般には”と言いましたのは、民間企業でも寡占や独占が進みますとその努力が失われがちとなり、市場の失敗を招く場合があるからです。

では、なぜこれらの二つの要因が発生するのでしょうか。次の3つにまとめられましょう。

@政府には倒産の心配がない!だからいわゆる官僚制の弊害を克服することが困難なのです。                                               A私企業のように収益とコストを価格メカニズムのもとに評価できない、あるいはしようとしない。なぜなら政府は議会で承認された予算がコストを規定するからです。言い換えればコスト削減ではなく予算の極大化が至上命題だからです。                    B公共的な性格から、成果の測定が困難です。客観的な評価の基準が存在しません。それはよく耳にする次のような幻想からきています。”インプットを増大させればさせるほどよりよいアウトプットが算出されるはずだ”という幻想なのです。

前夜のお話と並んで、「市場の失敗」、「政府の失敗」の双方が共に存在し、その発現によって市場、政府の機能が著しく損なわれることに注目すれば、すべては市場が応えてくれるとか、政府が面倒を見てくれるとか、安易に信頼を寄せるのは危険ですね。だからこそ、市場万能主義、政府規制のあり方(民営化論もその一つ)とかが、現代経済政策のたいへん重要な課題となっているのです。

第89夜 - 政治とは

前夜の「政府の失敗」で政治の話にちょっと触れましたので、今夜は閑話休題として、政治に関するお話を。対外ではイラクの問題、拉致問題、国内では年金をめぐる諸論議等々多事多難のときに、政治家たるものはどういう姿勢が必要か、ここではイデオロギーを抜きにして、マックス・ヴェーバーの「職業として政治」の結尾から拾ってみましょう。

「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、−はなはだ素朴な意味でのー英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対してささげようとするものに比べて、現実の世の中がー自分の立場からみてーどんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!(デンノッホ)」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」(ベルーフ)を持つ。」

第90夜 -難解な経済学の専門用語

ノーベル経済学授賞者の有名なポール・サムエルソンは、自らの業績をこんな風に表現しています。

”私自身の学問的業績は・・・厚生経済学や要素ー要素価格的均等化などの問題を包括している。ターン・パイク定理と接点軌跡の包絡線定理、モザックーヒックス型のミンコウスキ−リカード−レオンティエフ−メツラー行列における非代替性関係、局所的にインパクトをもった位相空間と質量等価のもとでの斉一的不確実性を満たす均衡財政乗数である。”

あぁ〜、経済理論もここまで来たかの感あり。若い経済学徒ならこのような数学的形式を苦もなく解いていくでありましょうが、学界ではいざ知らず一体こんな表現を当のサムエルソンは世間に公表するでしょうか?「ハテナ博士」には、サムエルソン自身が、経済学って専門用語で語ればこんなになってしまう、もっと他にわかり易い表現があるのに、といささか自嘲まじりに皮肉を込めて言っているように受け止めているのですが、いかがでしょうか?

第91夜から第95夜までへ

経済学物語へ戻る