前夜からの続き

第96夜から第100夜まで

第96夜 - ハロッドが描くケインズ伝

ケインズ伝(John Maynard Keynes, 1883〜1946年)の定番は何といってもR.F.ハロッドの『ケインズ伝』でありましょう。その端正な文体は、ケインズの高弟、ハロッドならではの名文で、次のような書き出しから始まります。

ジョン・メイナード・ケインズは1883年6月5日、ハーヴェイ・ロード(Harvey Road)6番地、静かなケンブリッジの街中のどっしりした広大なヴィクトリア王朝風の家で生まれた。・・・・・・思想と実際問題の諸領域にわたる彼の活動的な、そして時には、疾風怒濤のような全生涯を通じて、彼は楽しい思い出に満ちたこの家へ、そして彼の愛する両親のもとへ帰ることができた。・・・・・・彼はハーヴェイ・ロード6番地に深く根をおろしていたのであって、そこは彼をはぐくんだ文化の安定した価値を具体的に表現していた。

永らくこの著はケインズの伝記を知るうえに欠かせない最高の地位を占めていました。ところがどうもハロッドはケインズの名誉を重んじたため、余り知られたくないケインズの一面を意識的に省いたため、伝記としての正確な叙述になっていないという声が聞かれるようになりました。けれどもケインズとハロッドの名声を汚すのを恐れたためか、ケインズの隠れた側面を知っていながら長く表に出ることはなかったのです。

ところがこの言わば恥部とも言うべきケインズのもう一つの顔を極めて鋭く衝き、ケインズを余すところなく描ききった一人の学者があらわれました。それが、スキデルスキーという人でした。

第97夜 - ハロッドへの異議申し立て

スキデルスキーという人は、このハロッドの『ケインズ伝』に対し、真実を隠しているとして異議申し立てを行い、3巻にわたる『ジョン・メイナード・ケインズ』という膨大な著書を刊行しました。豊富な資料に基づく綿密な考証のためか、邦訳に時間がかかり未だに第3巻は邦訳が出ていません。スキデルスキーによりますと、ケインズの同性愛、大衆投資家へのあざむき、懲役拒否の事実などハロッドは意図的に隠していると指摘しています。が、決して中傷やいわゆる暴露ものとして発表したものではなく、アカデミックな態度で事実に対する真摯な姿勢がうかがわれます。それでも「ハテナ博士」は第1巻を読んでその濃密な研究内容に圧倒されたものの、率直に言ってこれほどまで書かねばならないのか、といささか気味が悪くなり、第2巻をひもとく勇気がありませんでした。ハロッドとスキデルスキーの違いは何なのでしょうか?前者(ハロッド)はハーヴェイ・ロードの神話、すなわち、知的貴族の姿を、後者(スキデルスキー)はケンブリッジの文化、すなわち、審美という私的生活を優先して書いたところに両者の違いの一因があるといってもよいでしょう。

第98夜 -The past is prologue

上の図は世界最大手の金融グループ、メリルリンチ社のロゴマークです。メリルリンチのシンポルマークは”Bull”(牡牛)です。証券市場ではbear market(熊=弱気市場)に対しbull market(牡牛=強気市場)という用語が使われますが、bullは積極的という意味のほか、大きい・強靭・忍耐強さなどのイメージを持ちます。同社はこれをロゴに使用しています。その他にも”A breed apart”というキャッチフレーズも使用されています。breedは品種を表す言葉ですが、同社の場合は合成して”A breed of bull”となります。この意味は「血統ある牡牛」となり,したがって同社のイメージは、他の牛とは一線を画した選りすぐれた牛、つまり他社を引き離す優良会社として広く世界に浸透しています。

この他に、「ハテナ博士」が感心したメリルリンチ社の社史のなかで、次の言葉が特筆されるでしょう。それは”The past is prologue”というフレーズです。この意味は、過去の歴史はあくまでもプロローグでしかなく、本当の物語はこれから未来に向けて始まる、ということでしょう。この句の出所は、シェークスピアの「あらし」(The Tempest)の第2幕第1場からです。

「ハテナ博士」はこのシェイクスピアの言葉が大好きで、座右名の一つに掲げております。そういえばかつてケネディ大統領の暗殺事件を描いた「JFK」という映画の終わりのテロップにもかすかにこの言葉が映し出されていましたのにお気づきになられましたでしょうか。

第99夜 - 英雄と有名人

英雄は歴史が作り、有名人はマスコミが作る。この両者の違いをブーアスティンという人は次のように鮮やかに浮き彫りしています。やや長くなりますのでサワリのところだけを。

英雄は時から生まれた。・・・彼は時のたつにつれて成長し、人々も時とともに彼のなかに新しい美点を発見し、功績を彼に帰した。過去の人になるにつれて彼はいっそう英雄的になった。・・・反対に、有名人はいつでも同時代人である。英雄が民話・経典・歴史書によって作られるのに対して、有名人はゴシップ・世論・雑誌・新聞の産物であり、映画やテレビのスクリーンの上にほんの一瞬現われるイメージである。時の経過、それは英雄を創造し確立するが、有名人を破壊する。英雄はくり返しによって創造されるが、有名人はだめになる。・・・有名人の没落には悲劇的要素は何もない。なぜなら、彼は本来の無名の地位にもどったにすぎないからである。悲劇的英雄とは、アリストテレスの有名な定義に従えば、偉大な地位から没落した人、悲劇的欠陥を持った偉大な人物である。彼はみずからの偉大さの犠牲となった人である。しかし今日の有名人はみずからの欠陥のゆえにではなく、時の経過によって、本来のありきたりの地位にもどったところのありきたりの人間にすぎない。

要するに死んだ英雄は不滅であり時が経つにつれて輝きますが、有名人はまだ生きているうちに過去の人となり舞台から退場する、と言っているのですね。

(D.J.ブーアスティン:『 幻影 ( イメジ ) の時代』より)

第100夜 -真の経済学者とは

第100夜を迎えるにあたって一言。前夜のようなお話は経済学の分野ではない、とお叱りを受けるかもしれません。けれども「ハテナ博士」は固有の経済学を狭く限定するのを好みません。理論あり、政策、経営あり、その他歴史や思想、文学、社会学、心理学等々広く何らかの意味で経済学に関わっている領域全てに興味のある話題を取り上げてきました。

わが国の経済学の開拓者であった福田徳三(1874〜1930)は、J.S.ミルの言葉を引用してこんなことを言いました。”経済学者たる以外の何物でもない者は決して良い経済学者ではない”と。そして対外ではW.バジョットを「経済学者の看板をかけて居る中で経済学者でない一番偉大な者」と評しました。因みに同時代の日本人では田口卯吉をこの点で称えております。

したがって101夜以降もこの姿勢で続けていきます。広く「経済学物語」と題しましたのは、このような意味合いからでした。このページをお読みくださった方で何かご意見・批判がありましたら是非お声をお寄せください。今後のホームページ運営の指針とさせていただきます。

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