補陀洛寺(ふだらくじ)

鎌倉市材木座6−7−31


京都大覚寺派古義真言宗 南向山帰命院
 鎌倉三十三観音第三番札所


源頼朝が鎌倉に入った翌年の養和元年(1181)に源頼朝が開基となり、文覚(もんがく)上人が開山した祈願所で、本尊は行基上人作の薬師如来像であった。当時は七堂伽藍を備えた大寺であったが、この場所が竜巻の通り道であったため、たびたび竜巻や火災にあって本堂だけが残ったといわれ、別名「竜巻寺」といわれている。寺の入り口に「頼朝公御祈願所南向山補陀洛寺」の石碑が建っている。

  


 
(注)
文覚上人は、摂津の国の武士集団・渡辺党の遠藤盛遠という武士であった。ある時、その盛遠が、同僚の渡辺亘の妻・袈裟御前に一目惚れ何度か忍び逢いを重ね、夫を殺そうとして誤って袈裟御前を殺してしまった。罪を償うために出家し熊野の山中で苦行をしたあと、後白河法皇に逆らって伊豆の蛭ヶ島に流され、そこで頼朝との親交が始まったといわれる。





文和年間(1352〜56)に鶴岡八幡宮寺の僧、頼基律師が中興した。明治初年に火災に遭ったが、仏像類は近所の人々が持ち出して全部無事であったという。大正12年(1923)の関東大震災で本堂は全壊、現在の本堂は大正13年春に建立された。頼基が中興時にこの寺にあった梵鐘は北鎌倉の東慶寺に移設されている。その梵鐘は神奈川県の重文に指定されており、鐘の上部には「除夜の鐘」と同じく人間の煩悩の数108個の乳頭が鋳られてあり、補陀洛寺と銘記されている。









本尊は、木造十一面観音菩薩立像で、本堂に祀られている木造不動明王像は、平安時代の天台宗の高僧、智証大師作で平家打倒を祈ったという。寺宝として、運慶作の日光・月光両菩薩像、弘法大師像、 千手観音像、毘沙門天像、弘法大師作の地蔵菩薩像、永和3年(1377)年銘の木造秘鍵大師坐像、平安時代の高僧・智証大師像、「征夷大将軍二品幕下神儀」と文覚上人が書いた源頼朝の位牌、自作といわれる頼朝の木像、文覚が那智の滝で荒行をした時の姿といわれる高さ18cmの木彫りの裸像などがある。





その他珍しいものとして、壇ノ浦の合戦時に平家の総大将平宗盛が最後まで持っていたという「九万八千軍神」と書かれた70cmX40cmの赤旗一流しが保存されている。麻と竹の糸で織られており周りがちぎれているが、書は平大相国(平清盛)の手によるものではないかといわれている。源氏の兵がこの旗を持ち帰り頼朝に献上し、頼朝がこの寺に奉納したと伝わる。毎年4月の「鎌倉まつり」から5月まで一般公開されている。

平宗盛は、源平合戦の総大将の義経が宗盛の人格を尊び、助命するために鎌倉に送ったが、頼朝に殺されてしまったのである。



境内には、大木の百日紅(さるすべり)がいっぱいに枝を広げており、樹齢は約200年といわれている。








[参考」

補陀洛寺は、珍しい寺名だが、サンスクリット語の音に漢字を当てたもで、観音菩薩が住む山の名である。 京都の叡山電鉄市原駅で下車し、鞍馬街道を南へ徒歩5分ほど(京都バスでは、小町寺バス停すぐ)の所に同名の寺がある。寺に伝わる話によれば、小野小町は陸奥の国までも漂泊の旅を続け、晩年、懐かしさから父が住んでいたこの静原に帰り着くも、昌泰3年(900)にこの地で亡くなったといわれ、「小町寺」とも呼ばれている。

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