真言宗大覚寺派 龍護山満福寺と号す 狭い路地の一角に、「義経腰越状旧跡満福寺」の碑が建っている。路地を突き当たり、赤地に白抜きで「南無地蔵菩薩」と書かれた旗がなびく急な階段を上ると、寺門の正面に、「龍護山満福寺」の掲額が見える。 天平16年(744)に、奈良初期(668〜749)の傑僧として名高い76歳の行基上人が開山。行基上人は、百済系の氏族高志氏の子孫で、天智7年(668年)に河内国大鳥郡で生まれた。15歳で出家し、法相宗の僧道昭に師事して24歳で受戒、法興寺、薬師寺を経て37歳から民間布教に諸国をめぐり、全国的におよそ四九の道場(寺院)をつくり、架橋・築堤など社会事業を行い、貧しい人や病気で苦しむ人々を救済し行基菩薩と敬われた。やがて聖武天皇の帰依を受け、天平15年(743)に奈良の大仏造営に貢献、745年に大僧正に任ぜられ、また菩薩の号を賜った。 源義経(1159〜89)は、一の谷、屋島の合戦で次々に平家を破り、壇ノ浦で平家を滅ぼした。元歴2年(1185)5月、義経は平家の捕虜を同行し頼朝に面会するために京から鎌倉へ向かったが、頼朝は義経が鎌倉に入る事を許さなかった。しかたなく義経は腰越のこの寺に3週間滞在し5月24日に一通の嘆願状(腰越状)を頼朝の信望の厚かった公文所別当・大江広元に差し出し申し開きをするが、聞き入れられずそのまま京へ帰った。その「腰越状」の下書きとして弁慶が書いたといわれる原文が寺務所の入口から本堂に入った右前方のガラスのショーケースに陳列されている。この古びた書状は「不顧為敵亡命」の6文字が抜けていたため、この寺に残されたものと伝わる。その後義経は藤原秀衡を頼って奥州に行き、4年後に藤原氏四代・泰衡によって命を落としたのである。 本堂内陣に、本尊として薬師三尊が祀られてある。その他に室町時代以前のお地蔵さま、そして宇賀神がこの寺では仏教として祀られある。本堂内には、弘法大師が活躍した年代図の額が飾ってあり、義経、静、弁慶らが表情豊かに描かれた32面にわたる一大絵巻の襖絵がある。これは鎌倉彫師がその技法を取り入れて書いた漆画であり、腰越状、弁慶の立ち往生、義経と静の別れの場面等、その生涯が物語風につづられている。位牌堂の格天井には、梅、ボタン、ハス、竹など絵柄の違う四十センチ四方の板絵が飾ってあり、四十八種の七色の鎌倉彫の花々が乱れ咲いている。境内には、義経公手洗の井戸、没後750年祭で建立されたという義経公の慰霊碑が建っており、弁慶の手玉石や腰掛石、裏手にある硯の池、椀、錫杖などが残されている。
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