文治年間(1185〜90)の 源平合戦の時に、源氏の家臣佐々木盛綱が、夢枕で神のお告げを受けて江の島弁財天へ参詣に向かう途中この地を訪れ、小動山に上り、その風光に感動して父祖の領国近江国八王子宮を勧請したのが始まりだといわれている。
明神鳥居といわれる石造りの鳥居をくぐると参道の奥に権現造りの社殿がある。新田義貞が鎌倉攻めをした時神社に戦勝を祈願し、太刀を沈めて神に祈りを捧げ、成就の後に黄金を寄進、それで社殿が再興されたと伝わる。
この寺を勧請した佐々木盛綱の末弟、高綱が宇治川の合戦で、頼朝から贈られた黒栗毛の名馬「生馬」に跨り、名馬「磨墨」に乗った梶原景季と先陣争をしたことは有名な史実である。鎌倉幕府打倒のため、新田義貞はこの鎌倉で相当手荒い戦をしたため、敵味方を問わず、死者の鎮魂の意を込めて社殿を再建したのではないかと思われる。
明治の神仏分離令で、地名を冠して小動神社と改称、祭神は建速須佐之男命、建御名方神、日本武尊。現在も腰越五ケ町の鎮守で、隣接の常泉寺が別当寺となっている。境内の奥に、海に面した見晴台があるが、静かに散歩できる穴場的な場所で、江の島、伊豆・箱根などが眺められる。
七里ヶ浜と片瀬・腰越の浜を分けている岬が小動岬で、地名の由来は、岬の山頂に三本の松があり、この松が風もないのに枝葉が揺れていたということから付けられたといわれている。岬には、幕末のベリー来航時には砲台が備えられていたといわれ、戦後に玉川上水で山崎富栄と心中した太宰治が、帝大生だった昭和5年11月28日夜半に銀座ハリウッドの田辺あつみ(本名:田部シメ子)と1回目の心中未遂(田部シメ子は死亡)事件を起こしたのがこの岬の袖ヶ浦である。

境内には、鎮守の杜として、大国主命を祀る金比羅宮、淤母陀流神を祀る第六天社、宇迦之神を祀る稲荷社、猿田彦神を祀る佐田彦社、天鈿女命を祀る天金田女社、漁業の神、綿津見神を祀る海神社などの祠が連なっている。
例祭「天王まつり」では、各町の山車が祭りを盛り上げている。腰越は昔から祭りの盛んな町で、かつては「西の祇園の花車、東は腰越の人形山車」と言われるほど有名であったという。
7月11日の神幸祭は江ノ島八坂神社の夏祭りと同時に行われ、小動神社の神輿が午後3時頃龍口寺前で出会い、小動神社まで向かうが、「ドッコイ、ドッコイ」と威勢のいい掛け声で互いに競い合いながら江ノ電通りを進む様子は勇壮で、夏の到来を知らせる行事となっている。
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