報国寺(ほうこくじ)

鎌倉市浄明寺2-7-4

臨済宗建長寺派 功臣山と号し
鎌倉三十三観音第10番

建武元年(1334)に足利家時が開基となり、天岸慧広(仏乗禅師)が開山したと伝わるが、開基は上杉重兼であるという説もある。足利氏と上杉氏の菩提寺として栄え、「竹の寺」として有名で、宅間上杉氏 の邸宅があった場所のため、宅間寺とか迦葉寺とも呼ばれている。
(注)
足利家時は尊氏の祖父で、報国寺殿と呼ばれていた。 父は淨妙寺中興の足利貞氏。 天岸慧広(てんがんえこう)は、無学祖元に師事し、のちに中国へ渡って修行。建夢想国師の兄弟子で仏乗禅師と謚されている。


北条氏が滅亡(1333年)した後、足利尊氏が武家政権の再興をはかり,持明院統の光明天皇をたてて延元3年(1338)に征夷大将軍となり,京都に室町幕府を開くと同時に、関東十ヶ国における出先機関として鎌倉にも「鎌倉府」を置いた。関東側の政治一切を任せられた「鎌倉公方(くぼう)」の初代は、正平4年(1349)二代将軍義詮の弟の基氏で、二代氏満、三代満兼、四代持氏と90年にわたり勢力を握った。永享9年(1437)に起こった永享の乱で、室町幕府六代将軍足利義教は補佐役だった関東管領の上杉憲実と対立した持氏の征伐を命じ、第四代持氏は敗れ、永享11年(1439)2月に永安寺で自害させられ、長子の義久もこの報国寺で自刀したため、ここが「鎌倉公方」としての足利氏終焉の地となった。なお、文安4年(1447)に足利持氏の子成氏が鎌倉公方の地位を得たが、康正元年(1455)に下総国古河(茨城県古河市)に移り、古河公方となったのである。

山門をくぐると本堂までは石庭を配した参道が続く。正面に「報国禅寺」の扁額が架かった本堂があり、本尊の釈迦如来坐像(市文化財)、仏乗襌師像(市文化財)、迦葉尊者像が祀られている。 国指定重要文化財の開山の著書「東帰集」と開山使用の木印や聖観世音菩薩像はは鎌倉国宝館に保管されている。








本堂左には萱葺きの鐘楼、右には迦葉堂がある。本堂前には、孟宗竹が密生した「竹の庭」のみちしるべが置いてある。












「拝観入り口」(拝観料200円)を入ると、陽の当たる場所に造成された苔に囲まれながら、真っ赤な実をつけた薮柑子(やぶこうじ)科の万両、百両、十両、千両科に属する千両が迎えてくれる。本堂裏に仏乗禅師作のよく手入れされた中庭があり、木のベンチに座って眺める石庭は素晴らしい。





中庭の奥には、見事に密生した孟宗竹の竹林庭ある。庭内には六地蔵が祀られあり、奥に休耕庵跡がある。ここは仏乗禅師が修行や詩作を行ったという塔頭跡で、孟宗竹の竹林庭を眺めながらのお茶席がある。



裏山には足利家時・義久一族の墓である大きなやぐらが建っている。由比ヶ浜などから発掘された新田義貞の鎌倉攻めの時の両軍戦死者の石塔や供養塔もある。







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