開基は時宗開祖の一遍智真(遊行上人、捨聖、円照大師などと称されている)で、弘安2年(1279)に作阿上人が開山。十二所の鎮守の杜、十二所神社の別当寺であった。

(注)
右の写真は、現在の十二所神社で、この寺から5分程の所に建っている。
開山の作阿は、真言宗の僧侶であったが、一遍上人が鎌倉に入ろうとして幕府に阻止され た頃に一遍に帰依して時宗に改宗したといわれている。
一遍は、延応元年(1239)2月15日に道後温泉の奥谷である法巌寺の一角で生まれた。(同寺には一遍上人生誕地の碑が建っている)10歳で出家 し、13歳の時太宰府で浄土宗を学んだ後一時還俗したが、32歳の時に再び出家し、各地を転々としながら修行を行い紀伊の熊野本宮で、「熊野権現から衆生済度のため阿弥陀如来の名号を記した札を配れ」との神勅を受けて一遍と称し信濃国で踊念仏を始めた。正応2年(1289)8月23日に51歳で摂津の真光寺で没するまで遊行(全国行脚の布教)を行ったが、鎌倉へ立ち入ることは許されなかったという。第四代の呑海上人が、実兄の地頭俣野五郎景平の援助により廃寺を再建した藤沢山清浄光寺は、その後歴代上人が遊行の引退後に住居とするようになって通称遊行寺と呼ばれるようになった。現在は、時宗総本山となっている。
山門をくぐると参道の左側に江戸時代の舟形石塔がずらり並んでいる。舟形石塔がとぎれたその前に、時宗開祖一遍上人像が建っており、その左の祠に塩嘗地蔵と六地蔵が祀られている。このお地蔵さまはもとは光触寺橋の金沢街道傍らにあったそうで、昔、金沢街道が別名六浦路ともいわており、六浦の塩商人がこのお地蔵様の前を通るときに商いの成功を祈り初穂として塩をお供え、その帰路に再びお地蔵さまの前を通ると、お地蔵さまが嘗めてしまわれ、塩がなくなっていたとの故事から「塩嘗地蔵」と呼ばれるようになったという。長い年月風雪にさらされたお地蔵さまは、丸みをおびておだやかな表情をしている。

本堂は、舟形石塔がとぎれた境内の左側にあり、本尊の阿弥陀三尊像(国重文)は鎌倉前期の運慶作で、中尊の阿弥陀如来立像は左頬に傷を持ち、「頬焼阿弥陀」の名で親しまれており、脇侍の観音菩薩は蓮台をもち、勢至菩薩は合掌をしている。本尊安置の本堂は、鎌倉公方足利持氏奉納と伝えられているが、現在のものは江戸時代の再建である。
由来によれば、「鎌倉に長者がおり、 この家で盗難があり、使用人の万歳法師が怪しいと告げ口され、主人が罰として法師の頬に銭を焼いて押し付けた。ところがどんなに押し付けても法師は一心に念仏を唱え、頬に焼き跡が付かない。その後持仏堂の阿弥陀像を見ると、金色の像の頬に銭の形をした焼け跡がついていた。法師が日頃から熱心に念仏を信じていたから、仏が身代わりになってくれたのだと、主人は仏の道に精進した」という逸話がある。寺宝の「頬焼阿弥陀縁起絵巻」(国重文)2巻は、鎌倉国宝館に寄託されている。本寺には、源実朝の創建で、十二所にあった大慈寺(廃寺)の阿弥陀如来像の頭部が保管されている。
静寂な山間の境内の奥に、池と紅白梅の築山庭園があるが、一般参観者は立ち入ることができない。
