後醍醐天皇が、征夷大将軍足利尊氏に命じて、元和3年(1333)5月21日に滅亡した鎌倉幕府第十四代執権北条高時以下の北条氏一族の怨魂の弔いと、鎮護国家の円頓大戒弘通(一遇を照らす人の養成)の道場として北条得宗邸跡に、北条氏の菩提寺であった東勝寺を移して祀った寺である。
開基は後醍醐天皇(1288〜1339)。開山は天台宗座主五代国師、円観恵鎮慈威和上で、建武2年(1335)の創建。七堂伽藍、二ケ院、三十六坊を有し足利氏の寺として栄えたが、天文7年(1538)に火災に遭い七堂伽藍がことごとく焼失した。
江戸時代に入って、天海大僧正が徳川家康に関東における天台律宗本山としての保護を懇願したといわれる。参道を進むと正面に、寛政十戍牛歳十月と刻まれた一対の燈篭、その脇に東久邇宮手植えの柏槇、その後方に巡礼者の張り札が目立つ本堂がある。
本堂の中央に、本尊として貞治4年(1365)三条法印憲円(胎内に銘記されてある)作の子育経読地蔵菩薩坐像(国重文)、脇仏として左に帝釈天、右には県重文指定の梵天が祀られている。本堂左の紫地に菊の紋がある「福徳天女」の内陣中央に、不動明王、左脇仏として鎌倉三十三札所第二番の仏、仏母准観世音像、右脇仏として毘沙門天像が祀られている。この内陣の菊の紋は、後醍醐天皇が北条執権幕府打倒のため足利尊氏に対し菊の紋が入った太刀と旗を与えたという故事からこの寺に菊の御紋が許されたといわれる。
本堂右奥の入口に、「一隅を照らす此れ即国宝なり」と伝教大師の聖句の札が掲げられてある。縁結びの天女の間には国重文指定の普川国師准賢和上座像を中心に、開山の慈威和上、閻魔大王、伝教・弘法大師像などが安置されている。
春の梅の花も大変に見事である。本堂前の大きな垂れ梅や、1本の木に赤と白の花が入り乱れて咲く、珍しい梅(想いのまま)などの梅を楽しむことができる。
秋は境内一面に白萩が咲き誇るので、「萩寺」と呼ばれている。
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