浄光明寺(じょうこうみょうじ)
鎌倉市扇ヶ谷2-12-1

真言宗泉湧寺派の準別格本山  泉谷山浄光明寺
鎌倉三十三観音第25番、鎌倉二十四地蔵第16・17番。

源頼朝の天下統一を助けた文覚上人が、頼朝の命を受けて不動堂を建てたことに始まる。この不動明王像は文覚上人が平家討伐祈願の為に、京都に行って背負って来たものと伝わるが、現在は「不動堂」に安置され非公開となっている。その後建長3年(1251)に鎌倉第六代執権北条長時が、真阿和尚(勅諡真聖国師)を迎えて浄土宗の寺として中興した。

第四世の智庵和上如仙房高慧の時代の元弘3年(1333)に後醍醐天皇の勅願所となって、寺格が上がる一方、浄土、真言、華厳、律の四つの歓学院(学問所)が設立され、人材養成の場として栄えた。後醍醐天皇の勅使となった新田義貞に追われた足利尊氏が、建武2年(1335)にこの寺に篭もり天皇に反抗する意思がないことを示したという。智庵和上に対する尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏から寺領、直義から仏舎利の寄進を受けたと古文書にあり、南北朝、室町時代には特に足利氏と関係が深い寺で、鎌倉公方足利満兼の菩提寺となった。現在は、京都泉涌寺を本山とする真言宗の寺となっている。

山門をくぐると萩、紫陽花などの木立があり、右に不動堂、左に客殿、庫裡がある。山門は江戸時代初期の寛永年間の建築といわれる英勝寺の惣門が一時民家の所有に帰し、大正15年に当寺に寄進され移設された。
石段を上がると正面に阿弥陀堂と呼ばれる本堂(仏殿)がある。もとは本尊の阿弥陀三尊が安置されていたが、寛文8年(1668)に大破したため再興された唐様建築の三間四面堂で、堂内には応仁2年(1468)の唐様須弥檀があり、堂内祖師堂には開山国師木像や歴代住職の位牌が安置されてある。本堂内の現在の本尊は、阿弥陀如来(過去仏)、釈迦如来(現在仏)、弥勒如来(未来仏)の市文化財となっている三世仏が祀られている。

その左手の収蔵庫に、正安元年(1299)の作で重要文化財に指定されている本尊の阿弥陀三尊像が安置されている。阿弥陀如来の阿弥陀とはインドのサンスクリット語で、「無量の寿命」「無量の光明」という意味がある。阿弥陀如来像には、むぎとうるしの接着剤で貼り合わせ装飾した土紋が施され、柔和な両目は暗闇でも光る玉眼と呼ばれる石がはめ込まれており、鎌倉を代表する仏像で、高徳院の大仏、長谷寺、光明寺、寶戒寺そして光触寺の阿弥陀如来像とともに有名である。脇侍の観世音菩薩(人の悩みを救う仏)と勢至菩薩(人に知恵を与えてくれる仏)は、宋朝美術の影響を受け高く結いあげた宝髻や長くのばした爪等の特徴があらわれている。庫内左側に県文化財の地蔵菩薩像が祀られている。南北朝期の作で、伝説では足利直義の守本尊といわれ、右手に矢柄の錫杖持っており、通称矢捨地蔵と呼ばれている。
(注)
収蔵庫の仏像の拝観は、木曜日、土曜日、日曜日と祝日に限られ、雨天多湿の日は中止となる。拝観料は200円。


境内の山際のやぐらがある所に、鎌倉市指定史跡の「大伴神主家墓所」がある。
初代の鶴岡八幡宮の神主は大伴清元で、鎌倉幕府によって任命され、明治4年(1871)の神仏分離までの二十五代に至るまで大伴家がその職についた。この墓所には、第十六代好時から二十三代清綱までの八基の神主墓とその親戚や家族など二十三基の墓塔がやぐらの周辺と中に収められている。




石段の奥に樹齢750年、神奈川名木百選指定のイヌマキの古木が立ち、寺の東方、多宝寺址の最奥に鎌倉時代の大型五輪塔(重要文化財)の一つで多宝寺長老覚賢和尚の墓塔があり、鎌倉まつりの期間のみ公開される。
阿弥陀堂の左手奥から裏山に上れば山腹に大きなやぐらがあり、その中には市文化財指定の高さ85cm、連坐の高さ30cmほどの石造りで、由比ヶ浜の漁師の網にかかって引き揚げられたという伝説がある網引地蔵菩薩像が安置されている。更に、その山頂の一角には、藤谷和歌集を残した冷泉為相の宝筺印塔がある。為相は「十六夜日記」を書いた阿仏尼の子で、従二位中納言の位を得て藤谷黄門と呼ばれ、嘉歴3年に没した。徳川光圀寄進と伝わる月巌寺殿玄国渉昌久の宝篋印塔が玉垣の柵に囲まれて建っており、その前に冷泉家門人が贈った正徳巳年(1715)7月17日銘の石灯籠も建っている。
寺宝として、市文化財の弘法大師画像、愛染明王像、木像古位牌、古文書、浄光明寺絵図などが保管されているという。

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