この寺は、正応年間に薬師如来を本尊とする真言宗の梅嶺山夜光寺として建てられたが、その後寺は衰退。永仁元年(1293)に幼い頃から日蓮に師事し、京都で日蓮宗を最初に布教した肥後阿闍梨日像上人が、由比ヶ浜の海中に浸ってお経を百日間読誦する修行を行った際、この寺が荒廃しているのを見て再興し日蓮宗に改宗した。その後、寛永年間(1624)に大乗院日達上人が有力な外護者の援助を得て、七堂伽藍完備の立派な寺院を完成し、自ら随身仏として奉持していた閻浮檀金釋迦仏像と日蓮聖人御真筆御本尊並びに日像上人筆御本尊等を安置し、山号寺号を大乗山薬王寺と改称し中興した。
徳川・蒲生両家のゆかりの寺で、寺紋に三葉葵が用いられ、当時は一般住民の埋骨を許さない格式ある寺であった。明治時代に神仏混淆分離令で無住職となった時もあったが、第50世と第51世の大正・昭和二代70年の努力で現在の寺院となり、昭和61年に第52世が住職を継承して現在に至っている。
山門をくぐり参道に並ぶ桜並木の坂道を歩むと境内に出る。緑豊かな谷戸を脊に、正面に本堂、左に鐘楼、右に庫裏がある。本堂は、享保12年(1727)の建立で、平成15年に改築された。本尊として釈迦牟尼仏木像と日蓮聖人像が祀られている。
日蓮聖人像は、第十一代将軍徳川家斉の命により制作され、最初は東京雑司が谷鼠山の感応寺に奉安されたが、比企ヶ谷妙本寺に移され、その後当寺で祀ることになった。法衣を纏い大きく口を開いて説法をされている姿の御像で、6月と10月に行う更衣式で法衣を着替えさせているという。
境内は広くはないが、美しい静かな寺として知られており、釈迦堂(昭和6年建立)、書院(昭和45年) 、庫裡(昭和46年)、 鐘楼(昭和56年)と市文化財指定の駿河大納言徳川忠長公の供養塔がある。
第二代将軍秀忠夫人は二男国松(忠長)をかわいがり、秀忠も忠長を将軍の後継者としたいと考えていた。長男竹千代(のちの徳川家光)は、気のきかぬおっとりとした少年であったが、春日局の働きで元和9年(1623)に第三代将軍となったのである。
相模風土記に「慶長10年1月11日徳川家康大山に登り慶長の大改革を令し山上を清僧の支配とす。慶長19年(1614)二代秀忠、お江戸の方次子忠長を将軍世嗣にせんとす。春日局之を悲しみ家光のため大山に詣り御手長供をなし不動明王に祈る。山麓井ノ口村大島四郎兵衛に宿し駿府に赴き家康に閲す‥‥。」と記述されている。
抗争に破れた忠長は、粗暴な振る舞いをしたため、所領を没収されたのち甲府へ蟄居を命じられ、後に高崎に幽閉された。秀忠の死後寛永10年 (1633)12月に28才で自刃。織田信長の次男信雄の息女で、徳川忠長の奥方松孝院殿が28歳の若さで世を去った忠長を弔うために供養塔を建立したと伝わる。