臨剤宗円覚寺派 総本山
第八代執権北条時宗(時頼の二男)は、蘭渓道隆について禅を修め、文永の役(1274)や弘安の役(1281)の戦没者の慰霊と禅宗を弘布するために自ら寺の建立を思い立ちこの寺の開基となった。そして開山のため招いた宋の高僧無学祖元(仏光国師) により弘安5年(1282)この寺が開山され、時宗は無学祖元を師と仰ぎ参禅に励んだという。 明治22年(1889)の横須賀線開通までは、北鎌倉駅前信号の所に北門の扉が残っていたが、大正12年(1923)の関東大震災の時に倒壊した。現在は門柱の一部と石垣のみが残っておりそこまでが寺域であった。鉄道を施設するため寺の境内が削られたのは鎌倉ではこの寺だけである。なお、線路に挟まれて池があるが、開山の時に仏光国師がこの池に来た時に鶴岡八幡宮の神霊が白鷺の姿になってここまで導いたの伝説から、白鷺池と名付けられたという。
総門に掲額の「瑞鹿山」の文字は後土御門天皇の宸筆と伝わる。総門をくぐって歩を進めると鱗門と呼ばれる山門がある。初代執権北条時政が江の島弁財天に武運の祈願をした時に龍が現れ鱗を落として姿を消したという。時政はこれは北条氏に長久の武運を招くものと喜び子孫にこのことを伝え、北条家の家紋を「三つ鱗」とした。現在の山門は、天明3年(1783)当山中興の大用国師誠拙和尚が再建した。掲額の「円覚興聖禅寺」は伏見上皇の勅筆。楼上には観世音菩薩像と十六羅漢像が安置されている。 境内を進むと、「大光明宝殿」と掲額の仏殿に至る。文字は後光厳天皇の直筆の写しと伝わる。現在の堂は関東大震災で倒壊後、40年振りの昭和39年(1964)に落慶したコンクリートの鉄筋造りで、元亀4年(1573)頃の図面を基に建築された。御本尊は木造の宝冠釈迦如来坐像で、脇侍として梵天と帝釈天が祀られている。天井には日本画家守屋多々志揮亳の白龍の図がある。
仏殿の左手に、柳生流の剣道場を移築した居士林がある。「居士」は、在家の禅の修行者を指し、在家信者の定期的な坐禅会が行われている。
仏日庵は北条時宗の廟所で、鎌倉三十三観音霊場三十三番札所である。堂内には、江戸時代作で僧の姿をした寄木造りの時宗、貞時、高時の木造坐像と位牌が安置されている。
妙香池の奥にある正続院の境内には、鎌倉尼五山第一位の太平寺が廃寺となり、その仏殿が移築された「萬年山」と掲額の舎利殿がある。第三代将軍源実朝が宋の能仁寺から搬入した釈迦の骨を祀る仏舎利を奉安する堂宇であり、この寺の最も古い建物で国宝に指定されている。 山門右手の山裾に洪鐘道があり、鳥居をくぐって140段の急な階段を上った所に、貞時が国家安泰と北条氏の繁栄を祈って寄進した洪鐘堂と弁天堂がある。今から700年前第九代執権北条貞時(時宗の子)が7日7夜江の島弁財天に参詣し、天下泰平、万民和楽を祈り、弁財天の加護により大鐘の鋳造に成功したという。正安3年(1301)銘のある物部国光作の梵鐘は、高さ2.59m、口経1.42mと関東最大で国宝となっており、常楽寺、建長寺の大鐘と共に、鎌倉三代名鐘の一つである。貞時は鐘楼の前に鎮守堂を建て、江の島弁財天を勧請してこの寺の鎮守として祀った。以来その霊験はあらたかにして、祈願すると必ず神威を得ることができた……と、参詣信者が多かったといわれる。60年に一度大祭が行われるが、神仏混淆の姿を今に残している。
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