東慶寺(とうけいじ)

鎌倉市山ノ内1367

臨済宗円覚寺派 松岡山東慶総持禅寺

北条時宗の妻が夫の菩提を弔うため、長男の貞時(第九代執権)と共に開基となり、落髪付衣し、無学祖元から覚山志道と安名され、弘安8年(1285)この寺を開山した。
北条時宗は18歳で第八代執権となり、弘安7年(1284)34歳の若さで亡くなったが、臨終に先立ち出家入道したという。覚山尼は不法の夫に身を任せた女性を不憫に思い、この寺に駆け込むことによって女性を救う「縁切寺法」を始めたと伝わり、この寺は群馬県世良田の満徳寺(明治5年に廃寺になった)と双璧をなす「縁切り寺」や「駆け込み寺」として広く知られている。

この時代の離婚は夫のみにその権限があったが、開山の覚山尼が悩める女性の救済のため「縁切寺法」を定めたことにより、女性がこの寺に駆け込んで(門が閉まっていた時には羽織か簪を投げ込めば寺に入れた。)ここで3年間辛抱すれば離縁となり、尼にならずに寺を出れば再婚も可能で男子禁制の尼寺として多くの女性を救済したという。なお、「縁切寺法」は明治4年1871)に廃止され、この寺は明治36年(1903)に尼寺から臨済宗円覚寺派の寺となった。

後醍醐天皇の皇女である用堂尼(後醍醐天皇の皇女で、護良親王の姉君)が第五世住持となってからは、この土地の名にちなんで「松ヶ岡御所」と称され、寺格も上がりこの寺の飛脚が大名行列に出会っても「松ヶ岡御所」の札を立てれば土下座する必要はなかったという。

二十世住持天秀法泰尼は、大坂夏の陣の後あやうく処刑されそうになったところを千姫に助けられ千姫の養女となった奈阿姫である。千姫(1597〜1666)は、徳川秀忠と浅井長政と信長の妹お市の長女で、豊臣秀吉の命により2歳で豊臣秀頼と婚約し、慶長8年(1603)に秀頼の元に嫁ぎ大坂城に入った。淀殿らに敵の娘として扱われ、不自由な生活を送ったが、家光の姉ということもあり、落飾してからも大きな影響力を持ち続けたという。

慶長20年(1615)5月7日の大坂夏の陣で秀頼は自害(23歳)し、豊臣家の子孫の存続を警戒した家康は8歳であった奈阿姫の兄国松を六条河原で斬首させ、千姫の養女となった奈阿姫を7歳で出家させ10万石の格式を与え、尼寺で男子禁制の掟の厳しい東慶寺に預けた。そして後に二十代目の住職を継ぐことになったという。
この時家康は天秀に何か望むものはあるかと奉書で問うと、天秀はただ寺法(修行すれば女から離縁出来る)が末永く続くことのみを望むと返書した。家康はこの願いを聞き届けた。当時7歳の天秀には書けないような文面であったため、これは千姫が代わって返書を出したとも言われている。こうして家康からのお墨付をもらった東慶寺は、江戸時代に幕府も手を出せない治外法権を持つ寺となった。千姫は天命11年(1626)に再婚した本多忠刻が亡くなった後出家して天樹院と号し、 寛永20年(1867)に、この寺の伽藍を再建している。


女性たちを守る砦であった寺の入り口の石段を上り、草葺き屋根のこじんまりとした山門をくぐると、下垂れ桜や梅の木がある境内に出る。







左手には草葺きの蛙型鐘堂があり、その梵鐘は観応元年(1350)の作で材木座の捕陀洛寺から移されたもので、神奈川県の重文に指定されている。鐘の上部には「除夜の鐘」と同じく人間の煩悩の数108個の乳頭が鋳られてあり、鐘楼天井には、色褪せてはいるが、空を駈ける龍が描かれている。 なお、この寺にあった元の梵鐘は秀吉の小田原北条攻めの折に砲弾の原料として没収されたが幸いにも破壊を免れ、現在は伊豆の蛭ヶ小島の大勝山本立寺の鐘堂に架かり静岡県の重文に指定されている。鐘堂の隣に昭和35年(1960)堀越家の寄進で移築した「寒雲亭」がある。千宗旦筆の「寒雲」の扁額がかかっており、 真行草の天井、櫛形の欄間のある名席である。もともと裏千家にあったもので、平成6年(1994)に改修され茶の湯愛好者たちの社交場として利用されている。

境内の中央通路の右側に、書院、本堂、水月堂、松ヶ岡宝蔵がある。書院は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊し、現在の書院は、大正14年末に復興された。格天井には御所寺の面影を残す十六菊花紋が描かれてあるといわれるが、書院は非公開となっている。

本堂の「泰平殿」は、昭和10年(1935)の再建で、屋根は美しい宝形造。御本尊として像高134.5cmの寄木造り・彩色玉眼入りの木造聖観音菩薩立像(重文)が祀られてある。なお、この立像は、鎌倉尼五山の筆頭、太平寺の本尊であった。大永6年(1526)に里見義弘が鎌倉に乱入した際、足利義明の娘でときの住持の青岳尼をはじめ、仏像・仏具のたぐいを奪い去り太平寺は廃絶した。東慶寺の要山法関尼が交渉した結果、本尊だけを鎌倉へ移すことに成功し、これを喜んだ北条氏綱が、聖観音菩薩立像を東慶寺に寄付したと伝えられている。像には、粘土を型に入れて作った花形をはりつけて表面を彩色した土紋の装飾が施されている。鎌倉時代末期から南北朝にかけて造られた数体にしか見られない貴重な装飾法で、鎌倉地方独特の工法だといわれている。その脇には頭部に蓮が開いた冠を被り合掌している知恵仏の勢至菩薩が安置されてある。なお、当時の仏殿は明治6年の神仏分離令による寺の改革時に寺の維持が困難となり、生糸で財を成した原三渓に買い取られ、現在は三渓園に移築され重文に指定されている。

本堂の隣には、百万石の前田家の持仏堂を昭和31年に移建した水月堂があり、像高34cm・全長54.5cm・寄木造り・玉眼入りの木造水月観音菩薩半跏像(県重文)が祀られてある。鎌倉では、美男の代表が長谷の大仏さまで、美女の代表はこの水月観音といわれている。呼び名の由来は、水辺に坐して、水面に映る月を眺める姿を表しているところからつけられたと伝わる。


松ヶ岡宝蔵では、「御寺法」、「日記帳」、「三下り半」など多くの寺宝が見学できる。離縁状を「三下り半」というが、名主を介しての離縁の理由が三行半で書かれたことからその呼び名が生まれたという。松ヶ岡宝蔵前の「さざれ石」は、国歌発祥の地といわれる岐阜出県楫斐郡春日村から搬入したという石灰質角礫岩。長い年月のうち雨水に溶解し、 小石を集結して大きくなり、やがて苔が生じるという「君が代」にあるのと同じ巌である。松ヶ岡文庫に向かう道に、安宅産業を興し、松ヶ岡文庫の建設の時に 喜捨した安宅弥吉翁の頌徳碑が建っている。

三方が山に囲まれ、杉木立の立つ谷合いの一角にやぐらがあり、その中に五輪塔の覚山尼、第五世用堂尼、そして印塔の第二十世天秀尼など歴代住持の墓が並ぶ。奥の墓地には、明治・大正・昭和に活躍した哲学者の西田幾多郎、倫理学者の和辻哲郎、岩波文庫の岩波茂雄、作家の高見順・小林秀雄・谷山徹三、法学者の中川善之助、東京オリンピックで優勝した女子バレーボール監督、大松博文などがひそりと眼っている。

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