真言律宗南都西大寺末 霊鷲山感應院と号す 第二代執権北条義時の子・重時が出家して、極楽浄土の姿を表そうと大寺の建立を思い立ち、正元元年(1259)に開基となり、開山は、慈善事業を数多く行い人びとの尊敬を集めていた良観房忍性が行うことになったが、重時は寺院の完成を待たずにその業半ばにこの世を去った。そして、第六代執権長時及び業時兄弟の支援によって文永年間(1264〜66)に東西八丁、南北七丁に及ぶ寺域に七堂伽藍、支院49院を完備する壮大な寺院が完成、忍性が開山した。
忍性は慈善救済の大事業として、施薬院、悲田院、施益院、福田院の四院を設け、癩病(ハンセン病)などの多数の病者を日夜収容し、貧者には無料で加療・施薬をして不幸な人々を救済する福祉事業を行った。精力的な活動をした忍性は、さらに橋を架ける土木事業も起こし、後醍醐天皇から菩薩の称号が贈られている。 その横に、社会救済事業を行った極楽寺の貴重な遺品の一つ、忍性が薬草をすり潰すために使用したと伝わる「千服茶臼と製薬鉢」と石造りの子育地蔵菩薩が建っている。宝物殿の転法輪殿前には寛元11年(1671)銘の庚申塔がある。 寺宝である本尊の木造釈迦如来立像、木造釈迦如来坐像、本尊脇侍の木造十大弟子立像は鎌倉時代作で、平安期作の木造不動明王像、密教法具などが国の重要文化財となっており、その他木造忍性菩薩像や木造文殊菩薩像などが宝物館に保管されている。 |