(成就院じょうじゅいん)
鎌倉市極楽寺1−1−5

真言宗 京都大覚寺派
普明山法立寺成就院



極楽寺坂切り通しの旧道沿いにあり、明月院と並ぶ紫陽花の寺として知られている。
平安時代の初期に弘法大師が諸国巡礼の折この地を訪れて、虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)を祀る数日間の護摩供養を行ったといわれる。その霊跡に承久元年(1219)鎌倉幕府第三代執権北条泰時が寺を創建し、京から高僧を招いて本尊の不動明王を祀り、北条氏一族の繁栄を祈ったという。


元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの戦火で寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが、江戸時代の元禄期(1688〜1703)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。

本堂内は公開されていないが、本尊の不動明王、鎌倉三十三観音21番の 聖観世音菩薩像、胎蔵大日如来像、弘法大師像、文覚上人荒行像 などが祀られているという。

山門を入ると、境内には、大正10年(1921)の聖徳太子1300年忌に際し建立された法隆寺の夢殿のような八角堂や、弘法大師修行像、本尊の分身、縁結びの不動明王三尊、子安地蔵菩薩が祀られてあり、本尊の縁結びのご利益を願う参拝者が多い。

    (子安地蔵菩薩)      (縁結びの不動明王三尊)    (文覚上人像)

(注)
空海は、宝亀5年(774)6月15日香川県の善通寺の近くで生まれた。20歳の時に出家、室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をしていた時「わが心空の如く、わが心海の如し」という境地を体験したことから「空海」と名乗るようになったという。
延暦23年(804)に最澄(伝教大師)とともに遣唐使の留学僧として入唐し、醴泉寺のインド僧 般若三蔵や牟尼室利三蔵から梵語や婆羅門の教えを学び、青竜寺で密教第七祖恵果より密教の正当な後継者として密教の総てを伝授され、「遍照金剛」の名を頂き大同元年(806)秋に帰国、真言宗の開祖として、天台宗の開祖となった最澄とともに奈良仏教から平安仏教へと日本仏教が転換する時の指導者となった。延喜21年(921)に醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られた。書道家としても能筆で知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。承和2年(835)3月21日に高野山で入定した。




境内にはナツツバキ、イワタバコ、ヤマボウシ、ハマナスなどが植えられている。
山門の左手にある長谷方面の参道の両側には、セイヨウ、ウス、ヤエ、ガク、ウズなどの紫陽花が植えられていて、6月から7月の季節には般若心経の文字数と同じ262株の紫陽花が色とりどりの花を咲かせ、参拝者を楽しませてくれる。前方に由比ヶ浜の海岸を一望することができる。






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