鎌倉駅西口から材木座1号地下道をくぐると材木座海岸に出る。海岸の逗子寄りに、鎌倉時代に港を造り中国との交易をした築港遺跡がある。前方には伊豆大島、右に淡く陵線が広がる伊豆半島、手前には、稲村ヶ崎と両仙山、そして山がくびれた所が極楽坂寺切り通しで海岸からの眺望を楽しめる。この地区は東の風川、西に稲瀬川と呼ばれ、地形の変化で風が変わるといわれる。 元弘3年(1333)5月22日未明、約2万の新田義貞軍は、稲村ヶ崎から上陸し周囲に火を放ち、浜から陸に流れる風に乗って幕府軍を攻め、北条一門870余名が祇園山で腹を切って幕府は滅亡した。
七里ヶ浜の いそ伝い 稲村ヶ崎 名将の 剣投ぜし 古戦場
海岸には海草が多く、この海草を焼いてその灰を水で洗って塩を作ったという。俗に藻塩を焼くといわれるもので、吉良上野介の郷、三河の吉良の塩もこの製法で作られたため黒い色をした塩だったそうである。忠臣蔵の事の起こりの遠因は塩だったのでは……ともいわれるように浅野家の赤穂の塩は天日製法で、白い塩で評判が良く売れたという。 材木座海岸の沖合いに引き潮になると姿を現す小石の河原のような小さな島がある。三代将軍源実朝が宋との交易を夢みて建造した船を材木座海岸から進水しようとしたが、海が遠浅のため船底が砂に埋まり船出に失敗した。史実によるとその時集まった人夫が「エンャコラサ……」とかけ声をかけたと……。このかけ声は今日まで残っている。また、宋からきた勧進上人が往阿弥陀仏を船で運んできたが、接岸時に船が破損したなど遠浅のため座礁する船が多かったという。 三代執権北条泰時の時、飯島崎から長さ約200m、幅約40mの広さのところに直径40cm程の丸石を敷いた防波堤と船着き場が造営された。この築港は江戸時代末期まで使われた日本最古の築港で、その遺跡は国史跡に指定されている。 海岸には「和賀江島」の碑が建っており、それによると貞永元年(1232)に伊藤左右衛門、入道平盛綱が極楽寺辺りの丸石を運んできて、宋の技術を学びながら築堤し、貿易が行われたという。その証として海底から多くの宋時代の青磁の壺の破片が出たとのことである。
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