延元元年(1336)、日蓮上人の門弟九老僧の一人である天目上人が休息山本興寺を開基。興国6年(1345)に、第二祖日什上人が堂宇伽藍を整備、永徳2年(1382)に山号を法華山と改めた。慶長13年(1608)に二十七世住持の日徑上人が「不受不施(受けず施さず)」を主張したため、徳川家康の怒りに触れ京都で処刑されて廃寺となったが、寛文10年(1670)に徳川家から寺領を寄付され日逞上人が再興したと伝わる。当地は、日蓮上人(33歳)が建長6年(1254)から数年にわたって、辻説法を行った旧跡で「辻の本興寺」と呼ばれており、門前に辻説法跡の記念碑が建っている。
真っ赤な山門をくぐり進むと本堂があり、本尊の三宝祖師と「日蓮大菩薩」と表示された日蓮上人木造坐像、天目上人坐像、天什上人位牌が祀られている。開山会法要は4月26日、施餓鬼会法要は8月11日に行われる。
本堂前の左側に、春には身延山から苗を移植したといいわれる「しだれ桜」が、右側には、夏に見事な花を咲かせる「さるすべり」が大きな枝を広げている。このほかにも境内には「銀杏」の木や「おおきの木」といわれる大木がある。墓地には、歴代住職の墓や昔からの永代供養塔がある。
本興寺と道路を隔てた横須賀線路寄りの場所に、「辻薬師堂」がある。

聖武天皇の神亀年間(724〜729)に藤原鎌足の玄孫、由比の長者染谷太郎大夫時忠が鷲にさらわれた我が子の供養ために寺を建立、後に「古義真言宗医王山長善寺」となった寺院の薬師堂であった。
本尊の薬師如来立像は承元3年(1209)に永福寺の傍らに建立した医王山東光寺の本尊であったが、建武2年(1335)護良親王が東光寺の獄舎で殺害された後、廃寺となったため長善寺に移され本尊として祀られたと伝わる。十二神将立像は、古義真言宗鷲峰山覚園寺(大倉薬師堂)の原型といわれている。

幕末に長善寺は焼失し廃寺となったが、この薬師堂だけが残ったという。この薬師堂内に祀られていた薬師三尊像と十二神将立像は、昭和41年(1966)に神奈川県重要文化財に指定され地元有志による保存会が保護してきたが、この設備では保存が困難なため、平成5年(1993)に市立鎌倉国宝館に移管された。
薬師堂が真言宗であった証として、堂の右側に「南無大師遍照金剛」と刻まれた碑が建っている。真言宗では、高野山奥の院御廟で開祖空海(弘法大師)は現在も禅定を続け、今も生き続けていると南無大師遍照金剛の称呼によって崇敬している。