妙長寺(みょうちょうじ)
鎌倉市大町2−7−41

日蓮宗 海潮山妙長

正安元年(1299)に日実上人が開基・開山した寺で、最初は伊豆に流罪となった日蓮上人が船出した材木座の沼ヶ浦近くの丘にお堂を建立したが、天和元年(1681)に大津波のため寺は流され、現在地に移転したという。立正安国論を書いて激しい布教活動を行い他宗を批判した日蓮(41歳)は、北条氏の怒りにふれて弘長元年(1261)5月12日朝琵琶小路で捕らえられ、問注所での取り調べもなく由比ヶ浜に連行され、伊豆に流されることになった。日蓮は沼ヶ浦から船出したが相模湾のしけのため、川奈の沖合い俎岩(まないたいわ)へ置き去りにされた。潮が満ちてくると海中に沈む岩の上で日蓮は大声で「南無妙蓮華経」のお題目を唱えていた時、付近で漁をしていた漁師の舟守弥三郎が舟をこぎ寄せ日蓮を救ったという。日実上人は、船守弥三郎の子といわれている。





山門に至る境内の入り口右脇に日蓮上人像がある。総門を入ると、正面に平成6年5月12日に落慶法要があった新しい 本堂があり、本尊の三宝祖師が祀られている。

,






境内には、昭和8年5月12日に建てられた「日蓮聖人伊豆法難記念」と刻まれた高さ11mの「相輪塔」がある。五重の塔の頂上の銅製の九輪だけを石柱の上に立て、その四方にも石柱を立てて中央の柱をささえたものである。中央の石柱は、関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の若宮大路二ノ鳥居の一部で、裏面に「寛文8年8月15日再興」という文字が刻まれている。日蓮が船出した時の「法難御用船」の六分の一の模型と、明治11年(1978)に鎌倉、逗子、三崎の漁師、魚商によって建立された「鱗供養塔」などもある。




明治24年(1891)に泉鏡花がひと夏をこの寺で過ごしたが、その時のことを、「もとより何故という理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重ねて台にした。 その上に乗って、雨戸の引合せの上の方を、ガタガタ動かして見たが、開きそうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉乱橋の妙長寺という、法華宗の寺の、本堂に隣った八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向って左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科という医学生が、四六の借蚊帳を釣って寝て居るのである。」と小説「みだれ橋」(後に「星あかり」改題)に書いている。


向福寺へ

歴史探訪の会へ戻る