清和天皇(第五十六代天皇)のときの貞観元年(859)に、僧行教により平安京の鎮護として宇佐神宮から分霊して石清水八幡宮が創建された。清和天皇から五代目の清和源氏・頼信は、京都の石清水八幡を信仰し、源氏の氏神としていた。頼信の子、鎮守府将軍陸奥守源頼義が康平6年(1063)に朝廷より奥州安部氏追討の宣旨を受け、「前九年の役」で勝利をおさめたことの礼として鎌倉由比ノ郷の鶴ヶ岡に仮宮殿を造り、伊豆渇山権現の僧を迎え石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮とし、源氏と鎌倉のつながりができたのである。頼義の孫、義家は、13歳の時に神前で元服し八幡太郎義家と名乗ったという。治承4年(1180)に鎌倉を本拠に定めた源頼朝が、「鶴岡八幡宮」を政権の中心地とした現在地に移したが、この地にあった神社は元八幡(下社)として今も祀られている。
大きな鳥居をくぐると、正面に大きな銀杏の木に囲まれた朱塗りの小さなお宮があり、境内には源義家公の「旗立の松」が残されている。小じんまりとした神域から、参詣した源氏の姿が偲ばれる。祭神は、応神天皇 比売神 神功皇后で、例祭は4月2日に行われている。
鳥居の右側にある「由比若宮」の表示板の右奥に、昭和2年(1927)3月に鎌倉町青年団が建立した「元八幡」の碑が建っている。
碑文
鶴が丘八幡宮は東(吾妻)鑑に 本社は伊予守源頼義 勅を奉して安部貞任征伐の時 丹祈の旨有りて 康平六年(1063)秋八月 潜(ひそかに)に石清水八幡を勧請(かんじょう:創設) 瑞垣(みずがき:垣根)を当国由比の郷に建つ 永保元年(1081)二月 陸奥守義家 修復を加ふ とあるは即(すなわち)此処にして 鶴が丘とは 昔時此地を呼ひたるならむ 其後治承四年(1180)十月十二日 源頼朝祖宗を崇めんため 小林の郷北の山を点して宮の廟を構え 由比の宮を此処に遷(移)し奉る 之れ現時の八幡宮にて 東(吾妻)鑑に 治承四年十月七日 頼朝先ず遥(はるか)に鶴が丘八幡宮を拝し奉る とあるは由比ガ浜の宮なり 遷宮の後も鶴が丘八幡宮と云ひしは旧称に従へるなり 爾来 (以後)此処を元八幡と称す