随我山能蔵院来迎寺 建久5年(1194)に源頼朝が、三浦大介義明と多々良三郎重治の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したが開山上人は不明。頼朝の没後、時宗に帰依した音阿上人が、建武2年(1335)に時宗に改宗し随我山来迎寺と改め、近年になって開山時の歴史を残すため「能蔵院」が付け加えられたという。
三浦大介義明は、和田義盛の叔父で、三浦郡の衣笠城主であった。治承4年(1180)頼朝が旗上げした時子の義澄やおいの義盛を応援に送り、自分は衣笠城で攻めてきた畠山重忠の軍勢と闘い戦死した。頼朝は建久8年(1197)8月27日、義明の十七回忌に満晶寺(横須賀市大矢部)の墓参りをして遺族に供養料を送り、義明は今日まで生きいたことと見なすと伝えたため、89歳で他界した三浦大介義明は「百六つ義明公」と呼ばれている。
本堂に、本尊として義明の守護仏といわれる運慶作の木造阿弥陀三尊立像が祀られている。また、観音霊場として「子育観音」といわれる聖観音菩薩像が祀られている。この観音さまに念ずれば必ず知恵・福徳・円満な子を授かると信仰されている。
境内には義明公及び多々良三郎重治の「五輪塔墓」がある。本堂の裏手に三浦一族及び家来の墓、百余基の五輪塔が並んでいる。
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