阿仏尼(あぶつに)の墓

鎌倉市扇ヶ谷1丁目


横須賀線北鎌倉駅と鎌倉駅間の線路に面した道路側、英勝寺の寺域の崖下のやぐらの中に、六層の石造が安置されてあり、これが阿仏尼の墓といわれている。阿仏尼は生年月日、実父母ともに不明だが、幼くして平度繁の養女となり、14〜5歳で安嘉門院((後高倉院の皇女邦子内親王で、後堀河天皇の准母)に仕えた後、建長5年(1253)に、 百人一首の選者で、歌壇の巨匠藤原定家の子為家の側室となり、為家との間に為相、為守、女子の三人の子を生んだ。そして、阿仏尼は、「続古今集」以下の勅撰集に51首収載されるほどの歌人となった。為家の死後正妻の子為氏と所領播磨国細川庄の相続問題が起こり、その解決を幕府に訴えるため京都から鎌倉までの旅に出た。その16日間の旅の様子を記したのが「十六夜日記」である。

弘安2年10月(旧暦)の降り続く雨の中、たどりついた笠縫の宿でその時の心境を詠んだ歌碑が笠縫の町の子守神社の境内に建っている。

     たび人は みのうちはらふ ゆふぐれの 
               雨にやどかる かさぬひの里

関東の十社に勝訴を祈る歌を百首ずつ奉ったが、訴訟の裁決を見ぬまま阿仏尼は没した。
十六夜日記の最後の歌は、

     ながゝれと あさゆふいのる 君が代を
               やまとことばに ゆふぞのべつる


母を慕って鎌倉に下向した実子の為相は、藤谷に住んで和歌の指導に励み、定家の流れを伝えた和歌の師範となり、正二位中納言となって藤谷黄門と称された。分家した為相は冷泉家の祖となって、「藤谷和歌集」「為相郷千首」などの歌集を残している。なお、冷泉為相の墓は線路向かいの浄光明寺の裏山にある。

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