浄光明寺(じょうこうみょうじ)

鎌倉市扇ヶ谷2-12-1

泉谷山浄光明寺
真言宗泉湧寺派の準別格本山

源頼朝の天下統一を助けた文覚上人が、頼朝の命を受けて建てた寺で、鎌倉第六代執権北条長時が、建長3年(1251)に中興、創建。開山は真聖国師、真阿上人。
本尊は国重文指定の阿弥陀三尊像で、脇侍の観世音菩薩(人の悩みを救う仏)と勢至菩薩(人に知恵を与えてくれる仏)は正安元年(1299)宗朝作といわれ、庫裡の裏手の収納庫に安置されてあり、仏像には鎌倉の地にしかないという土紋といわれる練った土による装飾が施され、鎌倉を代表する仏像の柔和な両目は玉眼と呼ばれ石で造られているという。

阿弥陀如来の阿弥陀とはインドのサンスクリット語で、「無量の寿命」「無量の光明」という意味がある。この寺の阿弥陀如来像は、高徳院の大仏、長谷寺、光明寺、寶戒寺そして光触寺の頬焼阿弥陀如来像とともに有名である。また、後醍醐天皇の勅使となった新田義貞に追われた足利尊氏が、建武2年(1335)にこの寺に篭もり天皇に反抗する意思がないことを示したという歴史も残り、南北朝、室町時代には特に足利氏と関係が深い寺であった。

山門をくぐると、萩、紫陽花などの木立の中に本殿、その後方のひなびた石段の奥に名木指定のイヌマキの古木が立ち、その傍に永福寺から寛文8年(1668)に移築した鎌倉最古の木造建築の阿弥陀堂がある。

阿弥陀堂の裏の山を上れば大きなやぐらがあり、その中には有形文化財指定の高さ85cm、連坐の高さ30cmほどの石造りの地蔵菩薩像が安置されている。更に、その山頂の一角には、藤谷和歌集」を残した冷泉為相の墓がある。為相は「十六夜日記」を書いた阿仏尼の子で、従二位中納言の位を得て藤谷黄門と呼ばれ、嘉歴3年に没した。徳川光圀寄進と伝わる月巌寺殿玄国渉昌久の宝篋印塔が玉垣の柵に囲まれて建っており、その前に冷泉家門人が贈った正徳巳年(1715)7月17日銘の石灯籠も建っている。

阿仏尼の墓へ