建長5年(1253)に、第六代将軍宗尊親王の命により、藤原仲能(道知禅師)が本願主となって七堂伽藍の寺が創建されたが、元弘3年(1333)5月、新田義貞の幕府攻めの時に寺は全焼した。室町時代になって、鎌倉公方の足利氏満が山内上杉氏定に寺の再興を命じ、応永元年(1394)4月に心昭空外(源翁禅師)を招いて開山した。鎌倉三十三ヶ所観音霊場第26番札所、鎌倉二十四ヶ所地蔵霊場第15番札所。
本堂には南北朝期の木造空外坐像が安置されており、五山、十刹に列せず建長寺の塔頭のようになっていた。「永亨記」(えいきょうき)などによると室町時代扇谷上杉氏の保護の下に栄えた様子が分かるが、事蹟の詳細は不明。往時は仏超庵をはじめ塔頭は十数庵をこえていたという。
山門右側に「底脱(そこぬけ)の井」があり、鎌倉十井の一つに指定されている。
安達泰盛の娘、無著禅尼(幼名は千代能)がここに水を汲みにきた時、水桶の底がすっぽり抜け、その時悟りを開いたとの伝説がある。
、”千代能がいただく桶の底抜けて 水たまらねば 月もやどらじ”
と詠んだので、底脱の井と名付けられたという。
また、上杉家尼が、
”賤の女がいただく桶の底抜けて ひた身にかかる 有明の月”
と詠んでいる。
(上の写真の右下に見えるのが底脱の井)
境内には本堂、鐘楼、庫裡、薬師堂がある。現在の本堂(龍護殿)は、関東大震災で倒壊後、大正14年(1925)の再建で、仏殿(薬師堂)は安永5年(1776)に浄智寺から移設された。薬師三尊像(鎌倉市指定文化財)、十二神将像、伽藍神像が安置されている。本尊は、啼(なき)薬師・児護(こもり)薬師といわれ、胎内には、土中から発掘されたという古い仏面を納めている。簡素な境内、堂裏にある庭園には四季折々の花が咲き誇っている。湧き水をたたえた心字池をはじめ、月見台から望む風景はまさに一幅の絵画を観ているようである。4月はカイドウ、6月は花菖蒲、秋には山門の階段の両側から萩の枝が垂れ下がるため、この寺は「花の寺」とか「水の寺」と呼ばれている。
境内の南の隅の、民家と岩壁に挟まれた小道を行くと、岩肌の洞穴に縦横四列づつ直径70cm、深さ4.50cm位の十六の小穴があり、きれいな湧き水を湛えるこの不思議な井戸は、決して枯れることがないという。誰が何のために造ったのかは分からないが、この穴は弘法大師が掘ったといわれており、納骨穴の跡ではという歴史家もいるという。やぐらの中央の岩肌に石造の観音菩薩像が祀られてあり、その下方には弘法大師像が安置されている。
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