明月院(めいげついん)

鎌倉市山ノ内189

臨済宗建長寺派、福源山明月院

明月院の歴史は複雑で、その創建を遡ると永暦元年(1160)に、山ノ内の住人で平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道の菩提供養に、子の首藤刑部大夫山ノ内經俊が庵を建てたのが始まりである。その後、康元元年(1256)に出家して僧名覚了房道崇と号した第五代執権北条時頼は邸宅を構えたこの地に最明寺を建立したが、弘長3年(1263)に時頼は37歳で卒去したため寺は途絶えた。
時頼の子で第八代執権となった時宗が、建長寺を開山した禅僧蘭渓道隆(大覚禅師)の五世法孫の位地にあった蜜室守厳禅師を招き「福源山禅興仰聖禅寺」としてその寺を再興し、父時頼の霊を弔ったが、時宗が弘安7年(1284)に34歳で世を去ったのちは寺が衰退した。

康暦2年(1380)に、第二代鎌倉公方となった足利氏満が開基となり、氏満から禅興寺中興の命を受けた関東管領上杉安房憲方が伽藍を完備したり、寺域を拡大して塔頭も建て、明月庵は明月院とあらためられ支院の首位におかれた。足利三代将軍義満(1358〜1408)の時代には関東十刹の一位となったが、明治初年に廃寺となって、明月院だけが残った。現在の境内全域は、国の史跡に指定されている。

総門をくぐると、梅雨の季節には鎌倉石の参道両側に300株の紫陽花が覆い被さるように花を咲かせ、その様は「アジサイ寺」の名にふさわしい。この寺の紫陽花は、透き通るような青色の「ヒメアジサイ」という日本古来の品種で、日ごとに色が変化して、淡い青から深い青に変化していく。


紫陽花を鑑賞しながら参道を進み山門をくぐると、左手に「紫陽殿」と掲額の本堂があり、本尊として聖観世音菩薩座像が安置されている。

本堂の裏には、山に囲まれた庭園があり、花菖蒲と紅葉の季節のみ公開される。本堂の座敷の向こうには満月窓があり、その向こうには紫色のハナショウブの庭を望むことができる。境内には見事な枝を広げる百日紅(さるすべり)の古木が立つ。枯山水の庭園は、須弥山をかたどり仏教観を表現しているといわれ季節の花が彩りを与えてくれる。

本堂の左を行くと、開山堂がある。禅興寺隆盛時代(1380年代)に建立された「宗献堂(そうゆうどう)」を開山堂としたもので、堂内中央には当院開山の蜜室守厳禅師木像、向かって左に最明寺・禅興寺、明月院の歴代住持の位牌がまつられている。 宗献堂の右側には、鎌倉十井の一つ、「瓶(つるべ)の井」が今も清水を湧かせている。

        「開山堂 (宗献堂)」              「瓶(つるべ)の井」



総門から左に歩くと、突き当たりの角に「北条時頼」の廟所があり、その左奥に宝篋印塔が建っている。
法名は、最明寺殿崇公大禅定門







石段山際には、鎌倉一の大きさを誇る「明月院やぐら」があり、中央に開基と崇められる上杉憲方の宝篋印塔が建ち、その背後の壁に釈迦如来、多宝如来や十六羅漢像の浮き彫りがある。上杉憲方は憲顕の子で、鎌倉御所と呼ばれた足利氏満を補佐する関東管領に任じられ、足利氏から信頼をえて山ノ内を中心に、梅田、松田、桜井田などなど各地に領地を有したという。山ノ内に居住した時に、上杉氏から山内と姓を変え、山内上杉の祖となった。応永元年(1384)に60歳で死去。極楽坂の入口脇に、法名の明月印殿天樹道合と書かれた宝篋印塔の供養塔が建ち史跡になっている。

寺宝として、上杉氏の祖といわれる木造上杉重房坐像(国重文)、明月院絵図(国重文)、北条時頼坐像(県重文)などがある。

石段と平行する参道脇には、若々しい孟宗竹がすくっと直立し、気持ちを和らげてくれる。

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