真言宗泉桶寺派 鷲峰山真言院と号す 建保6年(1218)に第二代執権北条義時がこの地に大蔵薬師堂を建立、時を司る神の12支神将を併祀し、持仏堂とした。建長3年(1251)の火災で薬師堂は焼失したが、永仁4年(1296)に第九代執権北条貞時が修復し、智海心慧を開山として覚園寺を創建、元冠の軍を退けるため異国調伏の祈願をしたと伝わる。その後火災により寺は焼失したが、文治3年(1354)に足利尊氏によって再建され、後醍醐天皇や足利尊氏等代々の為政者の手厚い保護を受けてきた。
境内の入口に広がる竹林の中に、明治38年(1905)に旧大楽寺本堂を移築した愛染堂があり、鎌倉後期作の木造愛染明王坐像、大楽寺の本尊であった不動明王坐像などが安置されているといわれるが非公開である。 寺伝によると、建保6年(1218)正月、義時の夢枕に十二神将の戌神が現れ、「来年の鶴岡八幡宮の拝賀には供奉するな」と十二神将の戌神よりお告げをもらった。翌承久元年(1219)正月27日の将軍源実朝の参賀にお供をした義時は、白犬に行く手を阻まれ式場に入れず、剣の役を源仲章に譲り退席したが、実朝は甥の公暁に暗殺され源仲章も殺された。この時にこの薬師堂の十二神将の戌神は義時を守護するためいなくなっていたという。義時はこの時から、白犬は、薬師堂の戌神の哀れみと信じ、益々信仰に意を込めたといわれ、このことから薬師如来信仰が広まり、室町時代に興した国分寺の本尊は、総て薬師如来となったという。 薬師堂右端の奥に、鎌倉六阿弥陀の一つである鞘阿弥陀像が安置されいる。この阿弥陀像と長谷寺の二体は、室町時代の作と伝わる。鞘阿弥陀は、人間が成仏後、極楽浄土に導いてくれる如来として多くの人々に信仰されている。薬師堂の近くに、移築された旧内海家(江戸時代中期の大型の名主住宅で間取りなどに特徴をもつ)がある。 地蔵堂(鎌倉二十四地蔵第三番)には、鎌倉時代の作で黒く煤けた木造地蔵菩薩立像(国重文)が祀られている。この地蔵は業火に焼かれる罪人の苦しみを和らげようと、地獄の番人に代わり火焚きを行い、そのため焼け焦げてしまったという。この言い伝えから「黒地蔵」と呼ばれている。周囲には千体地蔵が並んでおり、8月10日の縁日は参拝者で賑わう。 山に囲まれた裏庭の境内に連なる落葉樹林、迫る山の麓には、藁葺き屋根の十三仏堂が建っている。十三仏堂内には、死後10人の裁判官による裁きの経過を示す十王教の規律が示されてある。初七日から三十三回忌までの十三回の忌日には各々の仏様が十三おられる。法要の事を[追善供養]と言うが、その意味は、我々がこの世(此岸)で善い事を行い、その事を仏様に報告、法要の度に追加してもらう。そうする事で彼岸に行った人の冥福を祈ることが出来る。
三回忌までに十王による裁判が厳しく執り行われ、死者に判決が下される。
三十三回忌を以って死者は地上から離脱し、浄土への往生が出来るとの輪廻転生が十王信仰である。裏山に深く掘られたやぐらの中に、十三体の仏像が安置されてある。関東地方で、十三仏を祀る寺は、鎌倉と秩父のみである。十三体の仏像やぐらの前に黒地蔵堂があり、重文の黒地蔵が祀られ、両脇には、日光・月光両菩薩が安置されている。その上に、六道輪廻 天上 人間 修羅 畜生 餓鬼 地獄 の額と、「袖振れ合うも他生の縁」と仏教の教えが示されている。 この寺は、拝観時間が決められており、静寂な境内を寺僧の案内で(午前10時から午後3時までの0分から拝観開始)約50分間にわたり、各堂を巡り、仏教と日常生活の関わりについての法話を受けながら拝観することになっており、自由拝観はできない。 |