惣門をぐぐると、細い参道には梅林が続き、水仙、ツツジ、ボタン、紫陽花、萩など四季折々の草木が境内を覆っている。竹林と杉の木立の中の階段を上れば、「瑞泉蘭若」の掲額がある古い山門に至る。山門前には、昭和4年、徳富蘇峰書の「吉田松陰留跡碑」が建っている。 (注)嘉永6年(1853)6月に浦賀に四隻の黒船が来航したが、吉田松陰はその船で海外渡航を計画し、母方の叔父で住職をしていた竹院和尚を頼って、前後四回この寺に宿泊したという記録がある。
当初は、七堂伽藍を備え、塔頭十二院の大寺院だったが、総て焼失してしまった。今の境内には本堂、客殿、庫裏、書院などの堂宇が点在するが、これらはほとんど大正時代以降のもので、現在の本堂は昭和56年に再建された。御本尊の釈迦如来像と夢窓国師座像は、南北朝時代の作で、国重文に指定されている。水戸光圀寄進と伝わる十一面観音菩薩像などが寺宝として安置されている。 本堂裏の山裾には夢窓疎石の指図によって作られた国指定名勝の池泉式庭園がある。南北朝時代の禅宗様式の庭を代表するもので、昭和45年(1970)に復元された。岩肌を削って掘られた池には山から引いた泉水が注がれ、池には小さな島や滝が配されている。 拝観券の裏に、この庭園について、下記の解説が記載されている。 池の向かい側の岩壁を削った階段を上って尾根に出ると、延宝2年(1672)と元禄2年(1689)に水戸光圀が滞在し、新編鎌倉記を編集したといわれ、鎌倉五山の僧による五山文学の中心となった一覧亭が復元されている。緑濃い境内の竹林の中に鎌倉公方の足利基氏、満氏、持氏などの墓がある。風光明媚なこの寺には、多くの文人が訪れており、吉野秀雄、久保田万太郎、大宅壮一、山崎方代などの文人石碑が建つている。 |