はじめに
鎌倉殿と呼ばれる鎌倉幕府は、源頼朝が創設した武家政権で、日本古来の慣習を重視しながらも、頼朝という潔物が関東武士の力を結集して自主独立軍団を確立したのである。
鎌倉幕府の成立の時期は、頼朝が征夷大将軍に任命された建久2年(1192)、「イイクニ ツクロウ」と云われてきた。近年は、頼朝の権力・統治機構は後白河法皇の院宣により源頼朝に対し与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した「文治の勅許」の文治元年(1185)11月28日とする説から、承久3年(1221)の西国・朝廷の掌握により成立とする説まであり、鎌倉幕府は、ある一時期をもって成立とするのではなく、徐々に成立していったとする説が有力となっている。
源頼朝の父義朝は、清和源氏の嫡流で、相模国鎌倉を根拠地とし、南関東一帯に勇名をとどろかせた武将であった。後に京都にのぼり、中央政界に出て武士の一方の旗頭となったが、平清盛と対立し、六条河原の平治の乱(1159)で平氏に敗れ東国に逃げようとして、尾張国内海荘で旧臣の長田忠致に殺された。頼朝の兄義平も一時は逃げたが、父義朝が殺されたことを知り引き返し、六条河原で斬られてしまう。
13歳の頼朝は父の一行に加わり、雪の山中ではぐれて一人さまよっているところを捕らえられたが、清盛の継母池善尼(イケノゼンジ)が清盛へ延命を陳情したことにより、弟の範頼、義経とともに命を助けられ、永暦元年(1160)3月11日伊豆「蛭ヶ小島」に流された。
平治の乱で源氏一族は壊滅し、都は白河法皇の落とし子ではないかといわれている平清盛を中心とする平家一族で固められた。永暦元年(1160)8月、平清盛は後白河法皇から武士で初めて参議に任じられ、公卿の列に加えられた。仁安2年(1167)には最高の官位である従一位太政大臣に任じられ平家の隆盛時代が続いた。しかし、清盛は治承5年(1181)2月5日高熱と頭痛の病が癒えず、64歳で他界、指導者を失った平家一門の力は目にみえて衰えていった。
源頼朝は、平治の乱から21年の歳月を経た治承4年(1180)、北条政子の父 時政の援助により東国伊豆で源氏再興の旗揚をした。石橋山の戦いで敗れた頼朝は、土肥実平とともに山中にひそみ自害を決意したが、大庭景親一族の梶原景時に助けられたことは「源平盛哀記」などで広く知られている。同年8月再起した頼朝は房総半島の南端安房国に渡り、二大豪族の下総の千葉介常胤、上総の上総介広常の協力を得て敗戦からわずか40日で立ち直ることができたのである。奥州平泉に滞在していた実弟の義経は、同年10月21日の富士川の一戦の直後に馳せ参じ、駿河国黄瀬川の宿で兄頼朝と涙の対面をとげた。そして、頼朝は東国を統治することに専念した。
頼朝の従兄弟の木曽義仲は治承4年(1180)9月に木曽の山中で挙兵した。寿永2年(1183)4月北陸道に進撃してきた平家一門を加賀・越中で撃退した義仲の軍勢が都を攻め、平家は幼少の安徳天皇を奉じて都を離れた。こうして、東の頼朝、都の義仲、西の平家と天下の形勢は三分割されることになった。
入京した義仲は後白河法皇と対立し、法皇は寿永3年(1184)源頼朝に義仲追討を命じた。頼朝は、二人の弟、範頼(のりより)と義経を大将として軍勢を差し向け、宇治・勢多で木曾義仲軍を破り、義仲は同年1月20日、栗津(近江)で討ち死にした。ときに年31歳であった。九州・太宰府まで逃れた平家は、やがて屋島に本拠を構え、出城として一の谷(神戸福原)に堅固な城砦を築いて多くの軍勢を集めた。
木曾義仲没後政権を回復した後白河法皇は、源平両氏を登用しようとしたが、頼朝から平家の追討を求められ、寿永3年(1184)1月26日平家追討の院宣をくだした。2月7日に義経が一の谷の攻撃を開始し、平家も必死に防戦していたが背後に回っていた義経の3千余騎がひよどり越えの崖上から急斜面を馬で駆け降りる奇襲攻撃を行ったため、平家は総崩れとなり、難攻不落と見えた城砦を明渡して再び平家は屋島へ落ちのびていった。
同年8月、後白河法皇は、源義経を検非遣使・左衛門少尉に任命し、9月には従5位下に任命、義経は大夫判官の地位についた。これは自ら武力を持たない法皇とその側近達の謀略で、頼朝には無断で行われたため、のちの悲劇のプロロークともなった。
文治元年(1185)2月19日、またも平家追討の指揮を命じられた義経は、屋島を急襲、これまで平家に続していた瀬戸内海の水軍の多くが源氏側について平家軍は大敗し、平知盛の本拠彦島に逃れた。
追いつめられた平家は3月24日に彦島を出て壇ノ浦で義経の水軍と決戦を行った。正午近くに始まった戦闘は、西から東に流れる潮流に乗った平家の方が優勢であったが、午後3時頃海流が30分程凪いだあと逆流し、下流に位置した平家を陸上の源氏軍が弓で襲ったため平家は抵抗することが出来なくなった。午後4時頃、総大将平知盛に最期を告げられた一門はあいついで海に沈んでいった。わずか7歳の幼少だった安徳天皇を抱いた平清盛の妻時子(尼となっていた)も海に飛び込み命を絶った。なお、安徳天皇は壇ノ浦の近くの赤間神宮に祀られている。
朝廷を無視し、鎌倉で武士のための政治に専念していた源頼朝は、朝廷の官職についた武将に対し美濃国以東に立ち入ることを禁止する布告を行った。官位を拒否して鎌倉に戻った家臣の梶原景時、土肥実平などが、源義経など官位についた者の報告を行い以後頼朝と義経の関係は悪化していった。同年5月に捕虜を護送して東国に下ってきた義経は鎌倉に入ることを拒否されて、腰越の宿場に留め置かれた。そこで、義経は神に自らの無実を誓った数通の起請文(キショウモン)を書いたが、その中で有名なのは、切々たる思いを述べ許しを乞ったことで知られる「腰越状」である。鎌倉入りを拒否された義経一行は藤沢の満福寺から奥州平泉に下り、義経はその4年後の文治5年(1189)4月30日、藤原泰衛に攻められ衣川で自刃、31歳の生涯を閉じている。その首は塩漬けにされ、七里ヶ浜に送られてきたが、頼朝家臣の梶原景時、和田義盛により確認された。そして首実験の後に片瀬の浜に捨てられたが、潮にのって境川をさかのぼり漂着した。義経の首を里人がすくいあげ、井戸で洗い清めたといわれる。藤沢本町に、義経を祭神とする白旗神社とその井戸があったといわれる遺跡が残っている。
藤原泰衛は義経を殺せば奥州は安泰と考えたようであるが、文治5年(1189)7月19日、源頼朝は自ら29万4千の兵を卒いて、奥州征伐に向かった。同年9月戦に破れた藤原泰衛は敗走の途中、部下の河田次郎に殺され、奥州平泉に栄華を誇った藤原氏は4代で滅亡したのである。
治承4年(1180)に源頼朝が旗揚げしてから10年の歳月を経て、源平合戦は壇ノ浦の戦で終わりを告げ、頼朝の軍勢は奥州の藤原氏も征伐し、頼朝は東国に確固とした新政権の「鎌倉殿」を築いた。そして源頼朝は上洛して法皇と接触し、右近衛大将と権大納言の職に任命されたが、征夷大将軍の地位は認められなかったため、4日後にその職を辞している。建久3年(1192)3月後白河法皇は66歳で他界され、同年7月に頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命された。頼朝は、正治元年(1199)1月13日に落馬が原因で53歳の生涯を終えている。
おわりに
幾多の災難を乗り越えた源頼朝を主君と仰ぐ「幕府」という武家政権による政治形態は、第二代源頼家、第三代源実朝の後、北条時政が北条執権の政権を確立し源氏の子孫である新田義貞に亡ぼされた第十六代守時まで続いた。その後室町幕府を足利尊氏が創設し、鎌倉幕府に次ぐ幕府政権ができたのである。「室町」という呼称は、三代将軍足利義満が将軍の公邸として造営した室町殿(現在の京都市上京区)に由来している。室町幕府は、約240年余り続いたが天正 元年(1573)に十五代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放され、終わりを告げた。そして、戦国時代を経て、徳川家康が開いた江戸幕府へと継承されたのである。
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