前夜からの続き

第351夜から第355夜まで

第351夜 - 機会の均等と結果の平等

もう10年も前のことになりますが、阿川尚之さんの『変わらぬアメリカを探して』という本に出会い、大変印象深かったので、最近改めて再読しました。題名から察するとおり、阿川さんはアメリカの良さをこよなく愛する方ですが、しかし愛すればこそ、この洗練された端麗な文章のなかにアメリカの不合理性をも指摘するのです。その最大のものは、機会の均等と結果の平等の不一致にあります。アメリカ人は、能力と努力によって結果に差がつくのは当然のことと思っています。但し公正な競争のもとで。例えばビル・ゲーツは褒められるこそすれ何ら恥ずべきことではないと思うのです。保障されるのは、結果の平等ではなく機会の平等です。長い間を要しましたが、そして今も皆無とはいえませんが、人種や性別による差別は厳しく禁じられています。それと同時に、競争が公正に行われているかどうか厳しく検証されるのです。このあたりまでは、素直に理解できましょう。例えば日本ではどうもこの検証が甘くて不正な事件が事前に防げないようです。
ただ、阿川さんが指摘しているのは、この点ではなく、次のくだりにあります。すなわち、アメリカでは余りに厳しい検証々々によって抗議や場合によっては裁判沙汰になる。それは「百分の一秒を争うオリンピックの百メートル走に似た緊張ととげとげしさが、この国の競争にはいつも感じられる。アメリカにおける平等とは、結果の不平等をいかに正当化するかのイデオロギーであるとさえ言えそうである」と。(青字は「ハテナ」)
到底日本ではここまでに至らず、とげとげしさは見られません。チェック、チェックを厳しくすればそれをごまかしあるいは言い逃れようとする行為が働きます。機会の平等の名目のもとに検証のずさんさはもちろん許されませんが、チェックのあまりの厳しさもまたギスギスした社会の関係をもたらします。どうやらこの議論に欠けているもの、それは結局は倫理の問題に帰するのではないでしょうか。

(阿川尚之『変わらぬアメリカを探して』 カギカッコ内はp.49.より)

第352夜 - たった一つの勲章

以前に阿川さんの『変わらぬアメリカを探して』を読んだとき第349夜での憲法修正案の話のみ記憶に残っておりましたが、次のエピソードはまったく覚えていませんでした。こんな感動的なシーンを忘れるなんて、「ハテナ」の記憶力のあやふさや読み方の怠慢のそしりを免れませんが、今回再読の機に是非紹介させてください。それはアメリカの元海軍作戦部長、アーレイ・バーク大将のことです。この歴戦の勇士は、日本海軍との戦闘で、「ジャップを殺すのに役立つなら重要、ジャップを殺すのに役立たないなら不必要」と徹底して日本と戦った猛将でありました。ところが日本の敗戦後、朝鮮戦争勃発時に米極東海軍司令部の参謀総長として東京に赴任してからは、大きく対日観は変わります。日本を含め東洋の歴史や文化を通して日本と日本人をみなおすようになりました。また日本の海上自衛隊の誕生に尽力し産みの親として日本の多くの海上幕僚を育てていったのです。毎年大将の誕生日に自宅を訪問して花を届けるのが駐在武官のならわしだったそうです。その大将が94歳で生涯を閉じ、母校である兵学校近くの海軍墓地で眠るとき、彼の胸を飾ったのは、各国から贈られた数々の勲章のうち、ただ一つの勲章でありました。それは日本の勲章だったのです。

(阿川尚之:『変わらぬアメリカを探して』より)

第353夜 -三権分立制と議院内閣制

日本の憲法は、立法権を国会に、行政権を内閣に、司法権を裁判所に分離させ、いわゆる三権分立の原理が貫かれていることになっています。では立法権を有する議会が何故行政権を司る内閣総理大臣を選ぶのでしょうか。この点は完全には分離していないという理屈も成り立ちましょう。そこでもう一方の議員内閣制という制度を持ち出す必要があります。議員内閣制とは、行政権の担い手である内閣が議会の意思に依存する体制であって、そこには権力の分立にもとづいて行政権と立法権をそれぞれ内閣と議会に形式的に付与し分離する機能を持たせる、という考えで、議会への信頼が強いイギリスに範を置いているということがいえましょう。それでも大統領制のようには分離してはいないではないか、という疑問にたいしては次の見解が参考となりましょう。
1865年から「フォートナイトリ」誌に連載され、1867年に単行本として出版された、W.バジョットの『イギリス憲政論』は、この両者の関係を次のように描写しています。すなわち、
イギリス憲法に潜む機能の秘密は、行政権と立法権との密接な結合、そのほとんど完全な融合にあるということができる。
として、あらゆる書物に書かれているように立法権と行政権との完全な分離をイギリス憲法の長所とはしていません。むしろ
内閣という新しい言葉は、行政権を担当するため、立法機関によって選出された委員会という意味である。立法部は多くの委員会を設けているが、内閣はその中の最大のものである。
また、
要するに内閣は国民を統治するために、立法部によって、立法部が信頼し、熟知する者の中から選任される一個の管理委員会である。
と位置づけています。
さて、その結果何が起こるか。引き続きバジョットのやや冷めた所論を次夜で紹介しましょう。

(参考: W.バジョット 『イギリス憲政論』 より)

第354夜 - バジョットの立法・行政の融合論

バジョットという人は、その評論の随所に機知に富んだ、ときには芥子のぴりっと効いた皮肉をその名文のなかに散りばめているところに魅力を感ずるジャーナリストであります。次の言説に注目してみましょう。

内閣はつくられたものでありながら、つくったものを打倒する力をもっている。それは、立法部によって任命された行政部であるとともに、立法部を破壊させることができる行政部でもある。それは、つくられたものであるが、つくったものを破壊することができる。それは、起源においては派生的であったが、行動においては破壊的である。(青字斜体は原文ではイタリック体)

まさか、小泉さんは、バジョットを読んで小泉改革を実現しようとしたとは思えませんが、それに似た発想にあると感じるのは「ハテナ」一人だけでしょうか。

(参考: バジョット同上書)

第355夜 - cabinet, bench, bar

英語で内閣のことを、cabinet と言います。なぜ小室なのでしょうか。「小さな部屋」と言われる所以は、チャールズ二世時代に君主の小部屋に大臣たちを招いて議会対策などを協議したことから、政治用語となった、とあります(バジョット『イギリス憲政論』p.73. 註1.)。また、benchと言う英語は長椅子のほかに「議席」を意味します。イギリス議会の席は、個々に仕切られた椅子ではなく、ベンチ、つまり長椅子に座って議論したことからこの用語が使われています。なお、法廷(lawcourt)や裁判官の意味もあります。例えば、bench and bar とは裁判官と弁護士のことです。後の方のbar、つまり酒場のバーがなぜ弁護士なの?これは法廷の手すりから転用されたものと思われます。いかめしい法曹協会が、a bar association であることも面白い名付けかたですね。

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