江戸切絵図で有名な金鱗堂尾張屋清七の文久元年(1861年)版の地図を見ると、当時の西本願寺(現在の築地本願寺)は、東と南と北は堀に囲まれていた。つまり三方が合引川の堀であった。当時、江戸湾の湿地帯に大変困難な埋め立てにより造成・建立したことが絵地図は物語っている。其の一角に「備前橋」がある。

現在の築地本願寺の北側は、川を埋め立て築地川公園と改め、コンクリート製の「備前橋」の欄干が遺され、橋桁のない橋は、河童の陸上がりといった感じである。この「備前橋」は対岸に約5千坪の岡山藩松平家の中屋敷があり、武士や町人たちが往来した橋、架け替え都度、其の名が残されてきた。平岩弓枝著「御宿かわせみ」に「備前橋」は登場する。今この地に立つと開発も終わり人影少なく、歴史の流転を思わされる。(竹内 晃)

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