1854年の神奈川条約で築地明石町一帯は荒地と化した。やがて明治政府はその一帯を外国人居留地と定め、交易を自由にさせた。異国人が渡来するようになり、豊前中津藩奥平家の下屋敷もこの地にあって、藩医・蘭学者の前野良次がオランダ語の医学書を初めて翻訳、1858年(安政5年)に福沢諭吉はオランダの学問を学ぶ塾をこの屋敷の長屋を借りて開き、10年後に芝浜松町に移り慶応義塾と名づけ、やがて三田に移転したのである。
 1859年、次々と欧米の宣教師が来日するようになり、外国人居留地にいくつかの子女教育の学校(女子学院、青山学院、明治学院、暁星学園、・・)が開かれたのである。1875年アメリカ公使館開設、1887年(明治20年)日本聖公会が発足し、立教大学、聖路加国際病院、聖路加看護大学の素ができた。斯様な次第で築地は俄に赤レンガの洋館が建ち並び、有名な築地ホテルがオープン、関連して銀座にレンガ街が出来るなど洋風化文明開化の上陸地となった。しかし、外国人居留地は1900年(明治32年)、欧米各国と締結した不平等条約改正で廃止され、横浜開港に伴う玄関の役割は横浜に移り、町名は明石町となった。(竹内晃)

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