1590年、徳川家康が江戸入府して先ず食糧供給の一つは江戸湾の漁獲にあった。経験豊かな摂津国(大阪)佃村の漁師たちを呼び隅田川河口の中州(佃島)に移住させ漁をさせた。
魚は江戸城外一般へも供給が可能になると、日本橋に幕府のお墨付き魚河岸ができた。問屋も初期は小売りの市場流通価格から逆に仕入れ価格が決まったそうで、当時は何と平和なコンシューマーオリエンテッドの時代であったか。
大正末1923年「中央卸売市場法」が交付された。第1次大戦による俄か景気、物価の高騰、米騒動などの社会不安から、各地で公設市場の開設が求められた。その流通組織の要として中央卸売市場が急がれ、関東大震災で拍車がかけられた。マーチャンダイズとして流通施設、公正取引などを渇望していた日本橋の魚河岸がこの施行で、1935年新しく「せり」の公正を導入した現在の築地市場が開設されるに至った。
現在、中央市場は元軍艦操練所の跡地23万平方米に場内と場外市場に分かれ、1日約5万人が出入りしている。1日の水産物取扱高20億円(2400t)、青果物取扱高3.5億円(1400t)、水産物の扱い高は国内最高である。そこで難題は1日2300台の運搬車から出す排ガス(Co2)の問題、及びグローバル時代への対応である。
システム的にも改革が求められ、場内市場は豊洲の40万平方米に移転が予定されている。商品の鮮度、品質、安心・安全、情報、IT化、加工と包装、・・・・・江戸から東京の食文化の継承・発展におけるコミュニティと都市環境の脱皮こそが新しく市場に期待されている。

場内・場外市場の狭間にある大きな市場駐車場ビルを背景に、象徴的な築地の波除稲荷神社(スケッチ参照)に立つと、300年前に難航した築地の埋め立て工事に、災難の波濤を乗り切る江戸人の熱き思いが、潮風に乗って伝わってくるのである。(竹内 晃)

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