例えば、刺客、チルドレン等々小泉劇場が流行語大賞になるなど、その多くはマスコミのかっこうの材料として騒がれており、幸か不幸かわたしたちは、一般にマスコミを通してしかそれらの姿を知ることができないのです。そうなるとジャーナリストの責任は極めて大きいと言わざるをえません。古典中の古典であるマックス・ヴェーバーの『職業としての政治』のなかで、ジャーナリストの責任について次のような言及がなされていることも振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。
・・・・・・本当にすぐれたジャーナリストの仕事には、学者の仕事と少なくとも同等の
「才能」
が要求されるということー職業がら彼らは命じられればその場で記事を書き、まったく違った執筆条件の下でも間髪を入れず活動しなければならないところから、とくに右のことが言えるのだがーこのことは誰にも分かっているとは言えない。ジャーナリストの責任の方が学者よりはるかに大きく、責任感の点でも、誠実なジャーナリストになると、平均的にみて学者にいささかも劣るものではなく、−戦争の経験からも分かるようにー勝ってさえいるということ、この点もほとんど無視されている。それも当然で、無責任なジャーナリストの仕事がこれまでしばしば恐ろしい結果を生んだため、それが記憶にこびりついているからである。さらに慎重さの点でも、有能なジャーナリストになると、他の人々より平均してずっと上だということ、これも誰も信じないが事実である。この職業には他とまったく比べものにならないくらい大きな誘惑がつきまとっているし、その他にも現代のジャーナリストの仕事に特有な条件が色々あって、世間では、軽蔑と、いとも哀れっぽい臆病さの入り混じった目で新聞を眺める癖がついている。
また、ヴェーバーの他の著『職業としての学問』では、ゲーテの『ファウスト』のセリフ(メフィストフェレス)を引用して、
・・・・・・気をつけろ、悪魔は年取っている。だから悪魔を理解するにはお前も年取っていなくてはならぬ。
熟年の域を通り越したわたくしたちでも、その持てる叡智と経験は今も十分に必要ではないでしょうか。
(マックス・ヴェーバー:『職業としての政治』岩波文庫p.43-44 『職業としての学問』同文庫p.65.)